第9章 恋知りの謳【謙信】湯治編 〜月夜の宴〜
謙信と佐助が出かけて、一刻を過ぎた。
宿の人間が、夕餉の用意が出来たと離れにやって来たが、主人とその忍びは、まだ不在であった。
「どう致しましょうか…。」
謙信に夕餉の時刻を指定されていた宿の人間は、困り果てていた。
「このままお支度をお願いできますか?わたしが責任を持ちますので。」
美蘭が満面の笑みでそう言うと、宿の人間はほっと胸を撫で下ろした様子で、準備のために1度下がって行った。
「勝手にいいのか?美蘭。」
幸村が、謙信不在で夕餉の支度を進めようとしている美蘭に、謙信の反応を心配して声をかけると、
「構いません。謙信様がご不在だからとお二人にお待たせなんて出来ませんから。」
ふわりと浮かべた笑みが、
可愛らしいだけでなく、
凛と逞しくも美しくて
「…!」
「…そ…うか…。」
信玄も幸村も、言葉を失った。
程なくして、
膳が運び込まれ支度が整った。
すると、
信玄と幸村が座っている膳の前に美蘭がやって来て
「お二人とも、その節は本当にありがとうございました。」
そう言って、畳に頭を擦りつけるほど深々と頭を下げた。
「…な、なんだよいきなり!」
慌てる幸村の隣で、
信玄は冷静に答えた。
「大人の事情あってのことさ。そもそも人質にしていたんだ。責められるならわかるが…礼など言われる筋はない。」
頭を上げた美蘭は、満面の笑みで、言った。
「筋なんて関係ありません。こうして今、謙信様とわたしが穏やかな日々を過ごせているのは、お二人との関わりがあったからなんです!…だから、感謝しています。」
「…っ…。」
信玄の胸は、ドクリと高鳴った。
自分が仕掛けたつまらない賭けのせいで、人質として捉えている間は笑顔を自分に向けることはなかった美蘭。
もうあの賭けが時効になった今、無防備に向けられる笑顔があまりに眩しくて
…愛しくて
信玄は、息をするのも苦しいような、そんな気持ちにさせられた。
細い指が徳利を持って酒を勧める。
「……。」
信玄は、むず痒いような気持ちで盃を差し出し、
愛しい女から注がれる酒を、
せつない想いで見つめた。