第8章 恋知りの謳【謙信】湯治編 〜湯治場へ〜
「上杉殿!よくぞおいで下された!」
2人の向かう方向から、艶やかな馬で駆けて来る初老の豪快な男性が、叫ぶように声をかけてきた。
この男が、吹田であった。
目の前まで来ると、お互い馬を止めた。
「久々に世話になる。」
謙信がそう言うと、
「ゆるりと楽しんでいって下され。それで…この麗しい姫君が貴殿の許婚の?」
「美蘭だ。今後贔屓にしてくれ。」
「…っ!?美蘭ですっ。どうぞ…よろしくお願いします!」
(い…許婚???!)
謙信の、所構わぬ独占欲と愛情表現に日頃からドキドキさせられ通しの美蘭であったが、
ここまで直接的に将来のことを語られたのは初めてで、嬉しいのは勿論であるが、慌ててしまった。
「吹田十兵衛にございます。長いお付き合いになりましょうぞ。」
美蘭は、真っ赤な顔でまた頭を下げた。
「謙信!」
その時、甲高い声とともに馬の蹄の音が鳴り響いた。
「椿!」
そう呼ばれたのは、うら若き女剣士。
肩下までの黒髪を一つに結い上げ、女伊達らに袴姿であった。
「きちんと挨拶をせい。許婚の姫君の前で失礼ぞ。」
吹田が、厳しくそう言うと
「…!?」
(今…睨まれた…?!)
椿は美蘭に強く冷たい視線を一瞬向けた。
そして
「いつも通り鍛錬場に来いよ!」
そう言うと、
馬の踵を返させ、嵐のように元来た道を帰って行った。
「娘の椿です。16にもなってあの有様で…。失礼を致しました。小さな頃から上杉殿に稽古をつけていただいておりまして、兄のように慕っておりますもので。どうかお許し下され。」
「許すだなんて!…気になさらないで下さい。」
(あの眼…違うと思うな…。)
美蘭は、吹田の見解は間違っていると思った。
椿のあの様子は…
謙信を男性として気にしているように見えた。
「赤子の頃より知っている弟のような…弟子のようなものだ。」
謙信は、美蘭にそう椿を説明すると
「髪が伸びてようやく見目は女に見えてきたではないか。」
吹田にそう言った。
「!」
謙信の言葉は、
何故か美蘭をモヤモヤとした気分にさせた。