第10章 Love Me Tender(白布賢二郎)
どのくらい寝たのだろうか。数分だったかもしれないし、永遠が過ぎたような気もした。背後から風の入り込む気配がして、白布はふっと眠りから浮上した。
隣の椅子が引かれる音がして、誰かが座る気配があった。
(あぁ、自分とおなじように遅刻者だ)
夢うつつで考える。
(もう授業が始まって大分経つのに、まだ来る人もいるのか。偉いな)
ぼんやりとそんなことを考えながら重い頭を上げて横を見ると、隣のその子と目があった。
一瞬で、世界の音が遠のいていく。
長い黒髪で、白いキャップを被った子。
切れ長の目で、大きい瞳。
背中には黒のギターケース──それが誰なのか気づいたとき、白布は寝ぼけて思わず呟いていた。
「桐谷さん……?」
言い切った後、ハッと気づいて口を押さえた。目立たない声量だったとは言え、顔が一気に熱くなっていく。寝ている体勢から慌てて身体を起こして、机に広げた筆記用具を片腕で一気に自分の方へと寄せた。
そうして生まれたスペースに桐谷は黒い肩掛けの鞄を置いて、「…ありがとう」とお礼を口にした。ギターケースを椅子の脇へ立てかけながら、訝しげな様子で白布を見てくる。
(やばい、完全にミスった……)
同じ学部とは言っても、1学年だけで100人近く在籍している。この人数規模で、面識のない桐谷の名前を白布は一方的に知っていた。
入学のガイダンスで一目惚れして、知り合った人に片っ端から聞いたから。
なんとかして手に入れた「桐谷琴葉」という名前。
それくらい関わりのない白布からいきなり名前を呼ばれたら、怪しまれるに決まっている。
今まで大切に隠してきたのに、あぁ隣に座ってくるなんて余りにも不意打ちで声に出してしまった。
(くそ、寝不足で頭が働かなかったせいだ。バカヤロー五色のバカヤロー)
羞恥心を悟られないように、白布は軽く咳払いをして姿勢を正す。一瞬悩んだけれど、僕は真面目に授業を受けています、というスタンスを貫くことを選んだ。
多少不可解なところがあっても、堂々としている人間は怪しまれないものである。自身の高校時代を捧げた牛島若利を見て白布は学んだ。