第7章 風にそよぐ場所(北信介)
「綺麗やったから、信介に教えてあげたくて」と言い訳を並べる。「1人で見るの、もったいなくてさ」本音だった。ただし正確に告白するなら、“信介に教えてあげたくて“ の部分は ”誰かに教えてあげたくて“ になる。
放浪癖のある美術部員と違って、バレー部は忙しいのかと思った。それはそうだ。バレー部だもの。しかもキャプテンである。信介は一瞬険しい顔をした後「琴葉、ストップ」と唐突に私の両肩を掴んだ。「止まらんと危ないで」
「え?」
「後ろ」
振り返ると、内ばきのかかとが木製のパネルに当たりそうになっていた。
「それ、美術部のやろ」穏やかな湖みたいな瞳だった。「あぁ、そうやけど…」と私は相づちを打ってから正気に返る。「そやねん!昨日水張りしたんだったわ。蹴るとこやった」
「みずばり?」
聞き慣れない言葉なのか、信介が繰り返す。その目の前に、ほら、とB4サイズのパネルを付きだしてあげた。
「絵を描く前の仕込みや。ペラペラの画用紙だと画材を乗せたらたわみやすいから、こうやって板に貼り付けんねん。乾くまで時間かかるんやで?」
刷毛を使って画用紙を水で濡らしてから、空気が入らないようにぴったり貼り付けるのだ。そして一晩くらい乾かす。何故だか私は、この“絵を描くための準備作業”を気に入っていた。しわもよれもない。角の折り込みまでキッチリ完璧。3年目にして上手くなったもんである。
「へえ」
信介は、まだ白紙の状態のパネルに視線を落とした。側面や裏面まで観察すると、独り言のように言った。「綺麗やな」
「よう言うわ。虹にはノーリアクションのくせに」からかってから、あ、と思い出す。慌てて窓に駆け寄った。
「うわー、もう消えちゃったよ」
「琴葉は、何描くん?これに」
「え?まだ考えとらん」
初夏の気温が戻っており、青空には雨の名残はなくなっていた。それでも私は虹のあった場所を探し続けた。「何描くか決められんねん、私」と口にする。
この悩みは美術部に入部した頃から変わらない。描きたいという気持ちはあっても、白い紙を前にすると手が動かなくなる。何を描けば良いのかわからない。原因不明の病気だ。