第60章 一夜の妖花(武田信玄/甘々)
「これからまだ仕事があるんだ。また夜に逢おう」
私を部屋まで送ってくれた信玄様は、そう告げると私に背を向ける。
「…信玄様っ」
「ん?どうしたのかな?」
私は咄嗟に信玄様の袖を掴んでいた。
何か言いたかった訳じゃないけど、少しだけ…離れるのが怖かったのかも知れない。
「いえ…お仕事、頑張って下さい」
「君にそんな顔をされると、抱き締めたくなってしまうだろう?」
いつも聞いている信玄様の甘い言葉ー。
いつもなら照れてばかりいる筈が、今は何故か…泣きたいくらいに胸に沁みる。
気が付いた時には、私は思い切り信玄様に抱き付いていた。
「どうした?今日は大胆じゃないか」
「信玄様…」
離れたくなくて、離したくなくて。
背中に回した手がギュッと着物を掴んでいた。
「迦羅。さっきのことなら、君は何も気にすることは無いんだ」
「……はい」
「君にこうされるのは嬉しいが、そんな悲しそうな顔は見たくないな」
落ち着かせるように頭を撫でる大きな手。
…そうだよね。
いつまでも甘えてばかり、いられないんだ。
「ごめんなさい。仕事に、行って下さい」
「ああ。夜に戻って来た時には、いつもの笑顔でいてくれるかな?」
「…はい」
心配を掛けないように、精一杯笑顔を作ってそう返事をしたの。
満足そうに笑った信玄様は
今度こそ背を向けて歩いて行った。
本当は胸の奥がモヤモヤしてる。
このままの私でいて良いのかな?
私がもっと…大人だったら……。
信玄様の後ろ姿が見えなくなったところで部屋に入った私は、座り込んで暫くそのままでいた。
ふと顔を向けた先には信玄様が贈ってくれた鏡台。
映っているのはもちろん私。
とても不安そうな顔をした、子供みたいな私ー。