第31章 紺碧の涙・後編(上杉謙信/悲甘)
ーその頃、春日山城は静けさを纏っていた。
「……」
灯りもない部屋。
力なく壁にもたれかかり、一体どれ程の時が経ったのか。
戦場から戻った俺は、幾日も幾日も迦羅を探し、そして待った。
だが、此処に迦羅は居ない。
残っていたはずのその匂いも温もりも
日を追う毎に薄れていくのを感じる。
「…迦羅」
いくらその名を呼ぼうとも、応えてはくれないのかー。
ガラッー
開けられた襖の音に弾かれて顔を上げる。
月灯りを背にした信玄の姿を確認すると、すぐに顔を伏せた。
「いつまでそうしている気だ」
「……」
「飲まず食わずじゃあお前が…」
「放っておけ」
俺の身を案じているのだろうが、俺は今それどころではない。
「…思い出すな、あの頃を」
信玄の言う意味を理解し、自然と顔が強張る。
「迦羅のことは俺にも責任がある。恨むなら俺を恨め」
襖が閉じられ、再び静寂が戻る。
…お前を恨んでどうなる。
恨むとすれば、この俺自身だ。
そっと目を閉じると、記憶の中にはいつでも迦羅が居る。
愛しています
私はいつでも信じていますから
一生離さないで下さいね
約束ですよ?謙信様…
「約束…か」
ー翌日
早朝から騒めき立つ城内では、信玄が謙信に代わり指示を出している。
「早急に進軍の準備をしろ」
「はっ!」
愛に墜落した軍神、上杉謙信の噂を聞きつけた敵国が、今まさに越後国境まで一気に押し寄せている。
屍同然の軍神など、恐るゝに足らんとー。
「兵はすぐ出せますが、あの人はどうなってるんですか」
「あいつは…」
「気持ちはわかるけどよ…」
悔しさにグッと拳を握る幸村。それは信玄も同じだった。
その隣で口を閉じたままの佐助も。
ー整った軍を馬上から見渡し、信玄が告げる。
「今回の戦、謙信に代わりこの武田信玄が指揮を取る!」
上杉武田軍の兵たちは荒く声を上げた。
「皆に必ずや勝利を…」
言葉を続ける信玄を遮るように、ひらりと白馬が現れる。
「…口上は無用だ。行くぞ」
「っ謙信様!!」
「謙信様が戻られたぞ!」
兵達から悲鳴にも似た歓喜の声が飛び交う。
馬を翻した軍神の目には、一点の曇りも無かった。