第31章 紺碧の涙・後編(上杉謙信/悲甘)
「お待ち下さい!」
部屋へ戻ろうと廊下を歩いていた私は、物々しい声に立ち止まった。
「何度申し上げたらわかるのですか!?」
声のするほうへ視線を向けると
廊下の奥で、謙信様の前に立ち塞がる人の姿が見える。
不穏な空気に触れ出ていくことが出来ず、角に身を隠す。
「一体何を考えておられるのか!」
「……」
「いずれ上杉に立つご自身の立場をお考え下さい」
「……」
「あなたにはこの国の未来がかかっている」
「だから、何だ」
「降将の娘など、断じてなりませぬ!!」
「…わかっている」
身分を否定する重臣の声。
それまでとは違う冷えた謙信様の声。
何が起きているのか知るには十分なものだった。
立ち竦んでいた姿は、通り過ぎようとした謙信様の目に触れる。
「聞いていたか」
「…はい」
「俺には、決められた運命(さだめ)がある」
「…存じております」
「…許せ」
色違いの目を伏せた謙信様が離れていく。
もう、縮まることはないであろうその距離が、離れていく。
やがて部屋へと戻った伊勢姫は泣いた。
必死に、声を殺して…
自分の運命と愛した人の運命。
それは決して交わることの出来ない恨めしいもの。
泣いているのは伊勢姫のはずなのに、私はその涙に溺れそうだった。
(どうか覚えていて…)
また、あの悲しみに満ちたか細い声が聞こえる。
(この世には…決して抗えない運命があることを)
(私にも…そして、あなたにも…)
この時、伊勢姫が何故私を呼んだのかわかった気がした。
上杉に投降した敵将の娘である伊勢姫と
謙信様の知り得ない、はるか未来からやって来た私。
形は違っても、謙信様に出逢ってしまった私達。
きっと伊勢姫は…
いつか引き裂かれるであろう二つの運命の悲しみを
私に教えようとしているのだとー
でも…
私は怖くありません。
この時代に来て、謙信様と出逢って、ずっと強くなった。
謙信様を愛したあなたならきっとわかっているはず。
本当は誰よりも…優しい人だって。
(……あなたで良かった)
え?
最後に聞いたのは、相変わらずか細いけれど、どこか凛とした声。
気が付けばまた
外は雨が降り注いでいた。