第30章 紺碧の涙・前編(上杉謙信/悲甘)
降り注ぐ雨の中、春日山城はにわかに騒がしくなっていた。
「やけに騒がしいな」
自室で書簡に目を通していた信玄の元に、幸村が駆け込んでくる。
「何をそんなに騒いで…」
「迦羅が居ないんだよっ!」
「何?」
幸村の切羽詰まった顔を見れば、すぐに事の大きさがわかった。
事情を知っている家臣の話では、
一刻程前に、野原まで散歩に行きたいと迦羅が言うので送り出したと。
急に大雨が降り出し、傘を持っていない迦羅が何処かで雨宿りをしているかもしれないと、近辺の城下を回ったが姿がない。
もちろんあの野原にも。
「ったく、何処行きやがったんだよ!」
余程心配なのだろう幸村が声を荒げる。
もしかしたら、雨が止むまでと何処かで世話になっているかもしれない。
だが、もしそうでなかったら?
その後城の者たちを呼び集め、もう一度城下と周辺を捜すことに協力を求めると、皆揃って迦羅の為ならばと従った。
妙なことに巻き込まれていなければいいが…。
数刻が過ぎ、雨が止み、真夜中になっても迦羅が帰ってくることはなかった。
その行方もわからない。
広間に会した皆は、あらゆる可能性を出しあった。
織田が取り戻しに来たのではないかー
いや、それはない。
憎たらしい奴等ではあるが、こんな真似をするとは到底思えない。
謙信を恋しく思うあまり、追っていったのではないかー
いや、それもない。
そもそも何処で戦をしているかなど、迦羅は知らない。
待っていると言うあの言葉に、嘘などなかった。
では、人さらいー
最近タチの悪い輩が出ているのは確かだ。
断定は出来ないが、可能性もなくはない。
とにかく何か行方に繋がるものを掴まなければ…。
皆に焦りの色が見え始める。
「ところでこの件、あの人に知らせるんですか?」
幸村の言うあの人とは、紛れもなく謙信のこと。
奴は戦の只中だが…
まさか隠してはおけないだろう。
迦羅が居なくなったなどと
奴の行く末さえ左右する一大事なのだから。