第6章 第3日目・男子FS(前編)
『曲は、ブラームス作曲ピアノカルテット第3番・第4楽章。ピアノが趣味な上林選手自ら選曲し編集、振付もしたという事です』
ヴァイオリンの音と共に流れてきたベースラインの3連符に合わせるように、純は左手で鍵盤を叩く真似をしてから滑り始めた。
曲中何度も登場するこの3連符は、ベートーベンの『運命』と同じリズムで、初めて聴いた時からずっと純の耳と心を捕らえて離さなかった。
きっと、FS作りに悩んでいた自分がこの曲に出会ったのも運命。
自分の競技生活の最後を締めくくる為に、神か誰かが引き合わせたのだろうと考えていた。
『最初のジャンプはSPでは見せなかった4T…これは見事に着氷!』
「高い…!」
まるで手本といわんばかりの4Tに、思わず勇利も感嘆の声を上げた。
元々複数のクワドを持っている純だが、膝に負担をかけられない理由から、SPではサルコウ1本のみに絞っていた。
しかし、FSではジャンプの回数が増えるので、出し惜しみなどしていられない。
ましてやこれは、自分の競技者としての最後の演技なのだ。
(たとえ膝が潰れても、勇利や健坊達の前でしょっぱい舞なんかして茶ァ濁す訳にはいかへん…!)
2番目に予定していた3Aも難なくクリアしてから4Sに移行したが、回転が足りなかったのか両足着氷になってしまった。
「ああ~、惜しか、純くん!」
「でも、堪えた!転倒はしてません!」
南と礼之が残念がってる隣では、コーチの藤枝が僅かに口元を歪めた。
(まずいな…後半はどうしても体力面から3回転中心になるから、ここで決めておきたい所だったが…)
一見、涼しい顔でスピンからステップシークエンスに入った純が、頭の中では懸命に先の要素について思惑を巡らせているのを、藤枝はこれまで彼と共に過ごした経験から熟知していた。
(どうする、純?お前の膝では、せいぜい飛べるクワドはあと1回だ。しかし、4Sも4Tも失敗すれば同時にコンビも潰れて減点のリスクが高い…)
3Fからのコンビネーションジャンプを決めた純は、蓄積され始めた疲労と誤魔化しきれない鈍痛の裏で、不思議と頭だけは妙に冴えている自分を感じていた。
4Sを失敗した直後から、純の中で何かがしきりに「飛べ」と語りかけていたのだ。