第96章 ワインレッド~season~
突然のことに驚いたおいらは、すぐには声が出なかった。
空耳か?って思いたかったけど…
おいらの肩に手が乗ってるし、この匂いは翔くんに間違いない。
「智くんも今来たの?」
再び聞こえた翔くんの声色は、いつもここに来る時と変わらずに明るかった。
「おいらはさっき来たばかり。これから頼もうとしてた」
おいらは何とか声を絞りだした。
「だったらさ、あっちの席にしてもらおうか」
「えっ?」
おいらはあんなことした相手だよ?
普通なら一緒にいるのはイヤなんじゃないの?
どうして?…って、頭が追いつかない。
その間にも、翔くんが店員においらの席の移動を交渉している。
…今「ありがとうございます」って言ってるのが聞こえたし。
もう腹をくくるしかないと思い、ビジネスバッグをギュッと抱え込んだ。
翔くんと2人で席につく。
いつもならウキウキな空間なのに、今はちょっと居心地が悪く感じる。
だけど、目の前にいる翔くんはそんな雰囲気は全然なくて。
一体どうしたんだ…?
「智くん元気ないね。疲れてる?」
「うん、まぁ…」
「そっかぁ。じゃあ今日は早く切り上げないとね」
翔くんがおいらのこと心配してくれてる。
そこへ店員が生ビールを2つ運んできたから、おいらは1つ受け取った。
「今日もお疲れ様」
ニコッとしながら言う翔くんの声とともに、カチンとグラスを当てる音が響いた。
いつもと変わらない様子に戸惑いながらも、やっぱり気になるのはあの時のこと。
「あの、さ」
「ん?」
「あの日…ちゃんと帰れた?」
翔くんの表情を見てたけど、ふふって笑っている。
「いつの間にかタクシーに乗ってたんだよね。家に着いたらさ、弟に酒臭いって連呼されて。すぐシャワー浴びて…あっという間にベッドで眠っちゃって。そっか、連絡してなかったね。ごめんね」
「ううん。ちゃんと帰れてたならいいんだ」
おいらはゴクゴクッとビールを半分近く飲んだ。
「えっと…それで…おいらが翔くんに…」
「そうそう。ありがとね。赤ワイン飲んでみたいって智くんが声をかけてくれなかったらさ。俺、赤ワインの美味しさを知らずじまいだったかも」
もきゅもきゅと頬をよく動かしながら食べる姿もいつも通りで。
もしかして…
翔くんはあのことを覚えてないのかなって感じた。