第5章 小さき影の過去
それは先程の謝罪のそれとは違っていた。
妹の幸せを切に願う姉そのものだった。
『姉様は・・・そいで良かのですか?私(あたい)
のこつそげん大切(てせ)ちしてくるっのは
本当(ほんのこ)て嬉(うれ)しか。じゃっどん、
姉様の幸せはどげんなっの?』
野風の不安げな声に姉は美しく笑った。
「お前(まあ)はそげなこと気にせんじいい。
お前の幸せが私(あたい)の幸せじゃっで。」
“実妹の幸せが己の幸せ”などとこの時代にそう
易々と言えるものではないだろう。しかし、
この女人は凛々しい声で言ってみせたのだ。
そんな姉が幸せは妹が良き人生を歩むこと
だと言うのならば、妹はそうするしかない。
そうせざるを得ない。こんなに思ってくれる
姉が居る。この人には己の想い人である豊久
同様、笑顔でいて欲しい。妹は決意した。
この時から妹ではなく“弟”になると。そして、
必ず約束を果たすと。
『姉様。さっき約束(やっじょ)、必(かなら)し
守(まも)っ!じゃっどんそん前に
二(ふた)っお願いがあっとです。』
妹の目はもはや二度と揺らがない。
野風は男としての名前と散髪を望んだ。
そして姉は妹に“久忠”という二つ名を与え、
女人として命と同価値と言える髪を切った。
そして妹は妹でなくなり、弟として姉の前に
立った。
『姉様。こいかあ私(あたい)や
剣の修行に行きもす。いっとっ会えもはんが、
どうかお元気で。』そう言い残し、
姉の前から姿を消した。
姉の目は揺るがなかったが、その目からは
身を知る雨がはらはらと降った。
実姉からもらった二つ名と共に久忠は
修行に励んだ。武器は今まで使っていた
野太刀ではなく、敢えて珍しい脇差二刀流
にした。脇差二刀流は仙台藩や盛岡藩などで
栄えていると読んだ書物に書いてあった。
久忠はあえて己の生まれとは逆の藩で盛んな
それを学ぶ事であたかも己は薩摩藩とは
関係なく、何処からともなくやって来た武士
であると名乗るという魂胆だった。
新たな流儀を、しかもほぼ独学で学ぶのは
死ぬよりも過酷な事だった。しかし、
全ては大切な人との約束を守る為であった。
野風はもう迷わなかった。