【HQ】片翼白鷺物語(カタヨクシラサギモノガタリ)
第2章 君のボールに恋してる
ちら、と手の中のエアーゲージと綺麗に磨かれたボールの山を見比べて、ああ、と牛島は朔弥を見下ろした。
「そうか、今日は金曜だったな」
「え、……うん。って、え?」
「どうした」
「いや、ちょっと待って若利。君、10キロを何分で走ったの……?」
タイムか、とジャージの袖を少し捲った牛島は、ストップウォッチ機能のついた腕時計のボタンを操作し、デジタル文字で表示された数字を淡々と読み上げた。
「28分13秒」
「にっ?!」
男子10キロメートル競争の世界記録は26分44秒。しかも、それは交通整備や給水ポイントなど走るための条件を整えた場合の話である。白鳥沢学園の運動部が使う外周10キロコースには、急勾配の坂道もあれば走りづらい石畳の階段もある。もちろん、途中いくつもの信号を挟んでいるというのに。
常識的に考えておよそ信じがたい記録を目の前の男はさらりと口にしたわけだが、しかし彼が嘘をつくなどもっとありえない話なので、朔弥はぐっと言葉を詰まらせたあと深く溜息を吐いた。
「……あれだけの練習量のあとにそんな全力で走り込むなんて、オーバーワークも良いとこだよ、若利……」
「そうか?」
「そうだよ! ああもう……とにかく、すぐにタオルで汗拭いてその汗だくのTシャツを新しいのに着替えて。春とはいえ日が暮れると冷えるんだから風邪ひく。それと念のためにマッサージやるからストレッチマット用意しておいて」
俺がこの最後のボールをメンテしてるあいだにね、と早口にまくし立てられて、やや気圧された牛島は素直に体育倉庫へ向かった。
青いマットにうつ伏せになった牛島の脚を、念入りに揉みほぐす。リンパの流れを意識して溜まった乳酸を足首から膝へ、膝から腿へと絶妙な圧力をかけて流していく手にされるがままの牛島へ、何かあった? と朔弥は静かに問いかけた。
先輩たちは卒業して、三年になって新しい部員が増えて。部活動だけではない。クラス替えもあったし、目まぐるしく変化する日常の中で、何か問題が起きたのかもしれない。
組んだ腕の上に顎を乗せて目を瞑っていた牛島は、その声にゆっくりと瞼を持ち上げる。二度ほど瞬きをする程度の僅かな沈黙のあと、彼にしては珍しいほど慎重に言葉を選びながら口を開いた。