第5章 汚れちまった悲しみに
“『清光…ちょっと来なさい』
『えっ』
彼女は足早に部屋に踏み込むと、突然加州の手を掴んだ。
『え、ちょっなにっ?』
傍から見ても、彼女の行動はあまりに乱暴に映った。加州が痛みを訴えるにも関わらず、強引に連れて行こうとする。
『痛い、ねぇ痛いってば あるじ、』
普段とは明らかに違う主に、恐怖から抵抗する加州。面食らっていた周りの者達も止めに入ろうとしたその時、
『良いから黙って言うことを聞きなさいッ!!』
今までたった一度も声を荒げたことなどない主の、初めての怒鳴り声だった。予想だにしない出来事にその場に居た全員が固まる。加州に至っては、大きく見開いた目からぽろぽろと涙を零していた。その時主に一瞬動揺が見えるが、それを隠すように顔を背ける。
『あなた達はここで待機していなさい。追ってくることは許しません』
放心状態の加州の手を引き、彼女は冷たく言い残してどこかへ向かう。
その後を追うように障子の向こうの影達も動き出した。不気味なクスクスとした笑い声に、背中を虫が這うような不快感が襲う。得体の知れぬ恐ろしい何かがズルリと身体を登り始めていた。その時、クイクイと誰かに袖を引っ張られる。
『なあ、之定』
『……和泉守』
振り向くと、不安げにこちらを見詰める瞳とぶつかる。いつもの気の強そうな雰囲気は削げ、牙の抜けた獅子、というより幼子のようだ。僕の袖を介し、彼の手に更に力が籠もるのが分かった。
『加州のやつ、大丈夫だよな?』
『酷いことなんか、されないよな?』
『大丈夫だよな?』
肯定を求める問い。
気丈に振る舞う為に取り繕ったであろう笑みも、潤んだ瞳が全てを語っている。その健気な姿はあまりに痛々しく、彼の求める答えを持ち合わせていない僕を苦しめた。
『……そうだね』
少し背の高い彼を抱き締め、僕はただ祈るように呟いた。
『信じよう。今は、信じて待つんだ』
そう答えると、じんわりと肩が濡れた熱を帯びていく。僕の肩に顔を埋める彼の背を、撫でてやることしか出来ない無力さにやりきれない思いが募った。“信じる”、自分はそんな言葉を口にしたが一体何を信じてやれというのだ。
加州の無事をか、それとも────主をか。”