第17章 紫原敦
「やっと終わった~」
大きく息を吐きだすと、紫原敦は長い腕を天井に向かってゆっくりと伸ばした。
雑誌などに載るような有名店ではないが、味には定評のあるパティスリーで働きはじめて三年目。
まだ見習いとはいえ、パティシエにとってバレンタインはクリスマスと並ぶ一大イベントであり、最大の繁忙期だ。
その証拠に、二月に入ってからは彼女に一度も会えていない。
「あ~しんど……」
凝り固まった首を右に一回、左に一回倒し、そのままぐるりと回す。
体力にはそれなりに自信があったはずなのに、毎年この時期だけはさすがに疲れを感じずにはいられない。
バレンタイン用にと、今年も大量に発注したクーベルチュールは、店長が厳選したベルギー産。
髪や身体に染みついた甘い香りで、脳内に不足する糖分を補うのもそろそろ限界だ。
──敦
胸の奥をくすぐる優しい声。
綿菓子のようにやわらかな身体を腕の中に閉じこめて、砂糖菓子よりも甘い唇を思う存分味わいたい。
だが、そんな焦がれる想いを募らせる日々も今日で終わりだ。
(そういえば峰ちん、どうしてるかな~)
今年から任されている在庫管理のファイルを閉じ、パソコンをシャットダウンさせると、敦は昔のチームメイトの縋るような声を思い出していた。
『おい、紫原!頼む、何とかしてくれっ!』
文字通り、目のまわるような日々を送っていた敦のもとに、そんな電話があったのは一週間ほど前のこと。
「いきなり何~峰ちん。オレ、今の時期はチョー忙しいっていつも言ってんじゃん」
『わ、ワリィ。でもよ、アイツが……さつきが今年もバレンタイン用のケーキ作るって張り切ってんだ。なんとかしねーと今度こそ死者が……死者が出んぞ』
ナンマイダ、ナンマイダと電話の向こうで念仏を唱える青峰に根負けして、忙しい合間をぬってメールで送った“誰でも作れる簡単チョコレートケーキ”のレシピは、果たして役に立ったのだろうか。
料理上手だという高校時代のチームメイトにも声をかけてみるとは言っていたが、桃井さつきの腕を侮ってはいけない。
「さっちんもある意味、キセキを起こす人だかんね~」
壁にかけられた時計の針は、夜の十時を過ぎたところ。
若かりし日の思い出に苦笑いしながら、肩まで伸びた髪を慣れた手つきでひとつに結ぶと、敦は厨房へ続くドアに手をかけた。