第17章 紫原敦
オーナーの許可をもらい、営業の終わった厨房で作りはじめたのは、彼女が一番好きなガトーショコラ。
さっきまで戦場と化していたことが嘘のように静まり返ったキッチンで、敦はリズムよくホイッパーを刻んだ。
角の立ったメレンゲを業務用の冷蔵庫に入れ、黙々と次の作業に取りかかるその顔は真剣そのもの。
「ウン。いい感じ~」
バターとともに湯煎で溶かし、卵黄をひとつずつ加えるたびに艶を増すスィートチョコに満足げに頷くと、敦は愛用のヘラを手に取った。
あとは、冷やしておいたメレンゲと、ふるっておいた粉をさっくりと混ぜ、高温で10分、温度を下げて30分焼成するだけだ。
型に流し込まれ、オレンジの灯の下でふんわりと膨らむ生地を時おり確認しながら、敦はチョコにまみれた調理器具を手際よく片付けていった。
お菓子が好きというだけの理由で、当然のように選んだパティシエという職業。だが、最初は面倒でしかなかったこの作業も、今は愛おしいとすら思えるなんて。
(ホント、人生何が起こるかわかんないよね)
そんな感傷的な思いをよそに、完璧に焼き上がったケーキが冷めるのを待って型から外し、粉糖を雪のように散らせれば完成だ。
「上出来ぃ~」
ショコラが映える真っ白なケーキボックスに、咲かせるリボンの花は定番のピンクと淡い紫。
──敦の髪、サラサラで気持ちいい
そう言いながら、飽きることなく髪を梳いてくれる細い指にと、ガラスケースにはりついて選んだ指輪は気に入ってくれるだろうか。
『紫原っちが彼女のことを考えて選んだものが、何よりのプレゼントなんじゃないスか?』
プレゼント選びにつきあってくれた金髪イケメンへのお礼は、ケーキ?それとも得意のフィナンシェ?
(でも黄瀬ちん、甘いのあんま得意じゃなかったっけ)
なんだかんだと切れない縁に、不本意ながらも緩みそうになる頬に力を入れながら、のそりと店を出た敦は、二メートルを越す巨体を震わせた。
「う~さむ……っ」
キンと冷えた夜の空気が寝不足の目にしみる。
終電には間に合いそうだが、今年も14日という日は越えてしまいそうだ。
(まあ、結ちんはそんなことで怒ったりしないけどね~)
ポケットに忍ばせた小さな箱の存在をコートの上から確かめると、敦は大好きな笑顔の待つ家に向かって、長い長い足を踏み出した。
end