第2章 ダスヴィダーニャ!涙の引退宣言!
黒い手袋に包まれた端正な指が、徹の涙をぬぐい、頬を撫で、血液の巡りをたどるかのように首から左胸へ落ちる。
ヴィクトルのやわらかな視線が、先を促すように徹を誘って揺れる。
瞳孔が開く。
はくはくと、興奮した体が短く息をする。
「……僕は」
まだ、おしまいになんかしたくない。
言いたいのに、声が上手く出てこなかった。
体の内側から熱の奔流が止まらない。
走馬灯のように、徹の脳裏に過去がよぎる。
初めてスケート靴を履いた日。
ヴィクトル・ニキフォロフの演技に魅了された瞬間。
兄たちにバカにされながら、それでも踊りたいのだと啖呵をきったあの時。
グランプリシリーズの、清涼な空気。緊張。焦り。
そして「もう一度」と決意した、勝利の瞬間の喜び。
全部が全部、ここで投げ出してしまえるものではない。
ここで終わりにして、諦められるようなものではない。
けれど、ここで終わりにするしかないのだと、冷静な自分が声を荒げる。
もうどうしようもないのだと。
もうあの時の羽のような跳躍は還ってこないのだと。
それでも。
「僕は、僕は、まだここにいたい……!!」
ヴィクトルのコートを強く握り、叫ぶように言った。
彼は一瞬驚いたような顔をしてから微笑み、柔らかく徹の黒髪をなでる。
子供のように声をあげて、みっともなく泣くのが恥ずかしいという気持ちはどこかへ行ってしまった。
心の中にしまっていた重いものを、ぶちまけたくて仕方がなかった。
ヴィクトルはコートが汚れてしまうのもかまわずに、徹を抱き寄せる。
とんとん、とあやすように背を叩かれ、髪をすかれ、安堵感に徹は目を細める。
この気持ちを抱えたまま飛行機に乗ってしまっていたら、きっと一生同じ思いを抱えたまま、リンクから目を背け続けたに違いない。
嫌いになってしまったに違いない。
ふと、一週間前に冷たい態度をとってしまった幼馴染の後ろ姿が浮かんだ。
「ごめん、ヴィクトル。もう大丈夫」
さすがに往来で抱き合ったままいるのは恥ずかしくなって、徹はヴィクトルから離れる。