第6章 空の青さを知れど海の蒼さを知らず
急に老け込んだ嗄れ声で呟いて、伊草は疲れた様に額を撫でた。
「言うたらば荒浜とてそこに加わってもよかろ?長い付き合いと言うならば」
「…矢張り詳しい事情をお知りのようだ。失礼」
波平は眼鏡のツルを畳んで目頭を揉み、トンビを捌いて椅子に掛けた。
「姉は砂へ遊学に出てそのまま嫁ぎましたから牡蠣殻との付き合いは私程に深くはありません。…海士仁に至っては深水の学舎に入ってからの関わり故、これも私程長くも深くもない」
「付き合いの長い者が一番と言わんばかりだの」
伊草が面白そうに髭を震わせた。
「ふんふん、磯の者は噂に違わぬ物知らずらしいわ」
手にした眼鏡をしげしげと眺めながら、波平は素っ気なく頷いた。
「そうですね。影たる私を筆頭に磯の者は物知らず、散開してやっと他里と交わり始めたばかりです。薄目も開かぬ赤子も同然故、世間の風向きの左右の別もつきません。草は世渡り上手と聞きますから、色々ご教授頂ければ有り難い事ですよ」
「そう思うなら木の葉の話を聞いたらよかろ。わちも自慢じゃないが物知らずえ?磯ほどじゃあるまいが、わちらの里も開いてはおらぬでな、もし。世故長けた木の葉に助けられれば何よりの事だえ。主も、わちもの」
厳つい顔に人好きのする懐っこい笑みを浮かべて、伊草が綱手と自来也を見た。
「牡蠣殻磯辺は人を殺したりしとらんえ。こう言ったらば、どうだえな、このわちを信じるかいな?」
「それにはまずお前さんの素性を明らかにして貰わねばなるまいな。名乗れ」
綱手に返されて、最もじゃえなと額を叩く。伊草は坊主頭を撫で上げてから一転スッと礼をとった。
「草は外交薬事を掌る薬事院外相司、翆伊草と申す。過日身罷った前君主翆為蛍の実兄にて継承権第四位の身分に在り申すが、廃嫡を願い出て成らず牡蠣殻磯辺に頼り草を出奔した次第」
室がしんとした。
伊草はひとり屈託なく首を傾げて、ドングリ眼を巡らせる。
「まあ外相司と言うても上に薬事が付くと全然意味が違って来ての。わちは薬の売り買いの匙加減をする、所謂草の番頭じゃいな。大したもんじゃないのよ。がっかりかえ?」
「為蛍の実兄か」
継承権第四位の男が廃嫡を望んで退けられて草を出た?牡蠣殻に連れられて?
…それに螺鈿というのは…。
波平を走り見て綱手は険しく顔を翳らせた。
物凄く、面倒な事になっていないか?