第17章 逃げるのではなく。
体を起こした波平から、チリ、と、音が鳴った。
鬼鮫と波平、互いの目が合う。
「サソリさんから」
トンビの隠しに手を滑り込ませて、波平がフと笑った。
「預かりました。どちらが受け取るかは判らないけれど、兎に角返しておけと」
引き出された波平の指先、薄明かりの中で鈍色の鎖と武骨な指輪がひっそりと光る。
「どちらにお渡ししましょうか」
「私が受け取りますよ」
間髪おかず、鬼鮫は腕を伸ばした。波平が差し出した雪中花を掌に納めて白い息を吐く。
「あなたも難儀な人だ」
鬼鮫を眺めて波平がトンビの懐に手を潜らせた。
「面倒をおかけした事でしょう。礼を言います」
「あなたに礼を言われる筋合いはありません」
素っ気なく返した鬼鮫に波平は顔を綻ばせる。
「だとしても言わせて頂きたいのです。お陰で牡蠣殻は生きて磯に戻った。あなたのお陰と言っていい」
「あの人は存外しぶとい。籠に閉じ込めるまでもなく生半な事じゃ死にはしませんよ」
口角を上げて波平を見返し、鬼鮫は雪中花を懐に仕舞い込んだ。
波平は黙って鬼鮫に頭を下げると、トンビの裾を捌いた。涼風が湧く。これが波平の失せ風なのだろう。皆まで見届けず、鬼鮫は波平に背を向けた。
「干柿さん」
巻き上がる枯れ葉の乾いた音に混じって、卑下でも皮肉でもない波平の声がその背中を追う。
「…何より磯辺を返してくれた事に感謝します。私にはあれが必要なのです。あれが磯に戻った以上、今度こそ離す事はしません」
「それはあなたが決める事じゃありませんよ」
振り返りもせずに、鬼鮫は前へ足を運ぶ。
私が、そしてあの人が決める事です。
風が巻いて、また山鳥が飛び立った。
鬼鮫は獣道に踏み込んで独り、山を下りた。