第17章 逃げるのではなく。
「好きなら捕まえられるとは限りませんよ」
皮肉げに言った鬼鮫へ、牡蠣殻は耳朶から手を離して穏やかに答えた。
「いいえ。好きなら捕まるんですよ。きっと」
フと風が吹いた。ヒラヒラと山の朽葉が舞い、暗い空からチラチラと雪が降り落ちて来た。鬼鮫の肩を牡蠣殻の髪を、明け時の初雪が一時彩って、また風に巻かれて消えて行く。
それを見送った牡蠣殻が、また鬼鮫に向き合った。散開の際、鬼鮫の元から逃れたときのように頭を下げた。
「一服しないんですか」
自分でも予期していなかった思いがけない一言が口から洩れ、鬼鮫は口角を下げた。牡蠣殻は半口を開けて鬼鮫を見、次いで朗らかに笑った。
「迷惑でなければ。よろしいでしょうか」
「どうぞ」
裸木の根本に腰掛けた牡蠣殻の隣に鬼鮫もまた腰を下ろす。
枯れた下生えが冷たい空気に匂い立つ中に、牡蠣殻の擦った燐寸の硫黄がクスンと交じった。懐かしいような心地になる嗅ぎ慣れたこの香りを、しかし実は数える程しか嗅いでいない事に気付いて鬼鮫は笑った。
栗の匂いの白い煙が棚引き、それを眺める牡蠣殻の手を鬼鮫の手が握り締めた。牡蠣殻の手が反って、鬼鮫の大きな手を握り返す。
煙は昇る端から儚くなり、色を消して空へ風と失せていく。
牡蠣殻がぼうっとそれを見上げて、ポツリと言った。
「なかなかのんびりは出来ないものですねえ…」
鬼鮫は牡蠣殻を横目で見やり、倣って空に昇る煙を見上げた。
「誰のせいだと思ってるんです」
「私のせいばっかりじゃないでしょうに。貴方だって決して尋常じゃない立場におられるんですから」
「私は自分の始末は自分でつけてますよ」
「あら。では矢っ張り私が問題なんですかね。すいません」
「…慣れましたよ。あなたの馬鹿には」
「有り難い話です」
「体を厭いなさい」
「煙草をすすめておきながら不思議なご忠告」
「すすめられなくても吸いたければ吸うんでしょう、あなたは」
「そうですねえ…。そうだと思います」
「なら目の前で吸われた方がまだしもマシです」
「成る程」
「勝手に死んだらどうしてくれましょうね」
「死にませんから」
「そうしなさい。許しませんよ」
「はは。わかりました」
会話が途切れ、牡蠣殻がまた空咳をした。鬼鮫の眉が上がる。
「ー牡蠣殻さん」
「寒いですね」