第17章 逃げるのではなく。
「まさかもう失せ出したんじゃないですよね」
「だから私に聞かないで下さいよ。知りませんよ、そんな事」
「干柿さんだからこそ聞いてるんじゃないですか」
眉根を寄せて牡蠣殻が袖に手を潜らせた。
「私だからこそ?成る程」
鬼鮫は牡蠣殻の髷に手を伸ばして、それを鷲掴みした。
「馬鹿な事を言う。私の話を悉く聞き流して今のあなたがいるんじゃないですか。今更その物言いは通用しませんよ」
「そうでしたか?そうなんですか。そうでしたっけ?うん?本当にそうでした?…そうかな。そうかも…知れない?」
「色々すっかり忘れてるようですね。思い出させて差し上げましょうか?」
髷を掴んだままグルングルン頭を振り回してやると、牡蠣殻が楽しそうに笑う。
鬼鮫は手を止めて片方の眉を器用に上げ、牡蠣殻を見下ろした。
「行くんですか」
「一平様の為になるなら、私は出来る事は皆して差し上げたいたいと思っていますが」
鬼鮫の手が、髷から離れる。牡蠣殻は髷を撫で擦って、またちょっと笑った。
「一平様が磯に居て木の葉に守られているなら、いっそ私は必要ないかとも思います」
「なら行かなければいい」
「ただ、杏可也さんと離れてまで磯に来る事が一平様の為になるとは思えないのです」
「政の前ではそんな事まるで些事でしかありませんよ」
鬼鮫の言葉に牡蠣殻は変な顔をした。
「私は甘いんでしょうかね」
「甘いですよ」
「成る程。では甘くて結構。私は磯だろうが草だろうが関わりなく、一平様を矯める者があるならば彼を攫って行く事にします」
「浮輪杏可也のところへですか?」
「さあ、状況が掴めないうちは何とも言えませんが、でも少なくとも一平様が失せ出したとき、困ったとき、真っ先に駆け付けるのは私という事にしましょう」
薄い耳朶を引っ張りながら、牡蠣殻は考え考え続けた。咳が出る。僅かに肩が震えて見えた。
「私と海士仁は幼い頃磯で生死を問わぬ里人の所在を探る仕事をして来たので、波平様より鼻が利くのです。失せる子を追うのも彼より私の方が得手でしょう。失せ始めた子を探すのは親の役目、それを私に任せようと、そういう話であるならば僭越ながら取り敢えず杏可也さんの代わりを努めてみますよ。私はこれで子供好きですからね。何とか頑張ってみます」