第17章 逃げるのではなく。
ジタバタするかと思った牡蠣殻は予想に反して大人しく抱えられたままで、口答えの一つもないその様子に鬼鮫は眉を顰めた。
どうせ考え事をしているのだろう。ー多分、一平について。
隠れ処の脇手、波平の姿が見えなくなった辺りで鬼鮫は牡蠣殻を下ろした。
「どうするんです」
両の手を脇に垂らして茫洋としている牡蠣殻に聞く。牡蠣殻は霞がかった様な目を鬼鮫に向け、パチンと目を覚ましたように瞬きした。
「どうもこうも、行きますよ。行くしかないでしょう。それだけの理由があるから波平様も私を訪ねていらしたのでしょうから」
波平が言った"迎えに来た"の言葉は文字通りに捉えられて、波平の伝えたかったであろう真意は完全に牡蠣殻の上を上滑りして行った様だ。
「あなたの企てにも弾みが付きますしね」
「…弾み…」
呆れ顔の鬼鮫の言葉に牡蠣殻は首を捻った。
「使いとは海士仁に間違いない。しかし何故海士仁は一平様を連れ出したんでしょう。杏可也さんと夫婦喧嘩でもしましたかね」
「馬鹿馬鹿しい事言いますねえ。あの二人の夫婦喧嘩なぞ想像したくもありません」
「そうですねえ…。想像したくもないと言うより想像出来ないですよ」
万事嫋やかで白木の観音像の様な杏可也と口数の少ない異相の海士仁の夫婦喧嘩など、考えてみても全く頭に浮かばない。
あれで気の強い杏可也は深水師にさえつけつけと物を言う事があったが、海士仁に対してはどうだったろう。時に露悪的な事を言って人を怒らせ、何が悪かったのかさっぱりわからぬ風だった海士仁は杏可也にもそう接していたろうか。
「波平様は何で私を迎えに来たんでしょう」
それをあなたが言うか。
矢張り昨夜の内に抱き殺しておけばよかった。
「一平様のお世話なら私でなくとももっと向いた人が里にいる筈なのに」
「あなたでなければいけない理由があるんでしょう」
「巧者が必要だという事ですか」
「…あなたはつくづく自己評価がそこにしかないんですねえ。情けない」
「いや、実際巧者が必要なのでしょう。波平様の手が回りきらなくなった…のかな。しかし里を抜けた私がまた補佐に収まる訳にもいきません」
おかしいなと牡蠣殻はまた首を捻る。
「ひとつそこそこの子の世話をするのに巧者が必要でしょうかね?」
「さあ、私は磯者ではありませんからね。あなたたちのやり方はわかりません」