第16章 迎えに来たんだ。
袖に重みがかかって、鬼鮫は傍らを見下ろした。
牡蠣殻が外套の袖口を掴んでいる。掴んでいるがその自覚はなさそうだ。無意識に側のものに掴まった、そういう様子でいる。
考え事に忙しいらしい。瞳孔が拡大している。
何を考えているのか、鬼鮫はその答えがわかる気がした。
私の事でも浮輪さんの事でもない。この薄情な女は、今一平とかいう赤ん坊の事を考えている。
気の毒に。
忌々しいが同情を禁じ得ない。浮輪の精一杯を牡蠣殻は半ば素通りしてしまっている。
こういう女ですよ。諦めた方がいい。
まともなやり取りは難しい。減らず口で何でもはぐらかし、腰が低いくせに依怙地な牡蠣殻の内に食い込むのはただただ面倒だ。
いや。知らぬでもないでしょうね。筒井筒の仲ならば。とは言え、知っているからといって、自分や相手が思うようになるものでもない。
浮輪は一平の話を持ち出すべきではなかった。
ただ迎えに来たと言えば、今牡蠣殻の頭を占めるのは浮輪波平になっていただろうに。
「わかりました」
すっと袖が軽くなった。牡蠣殻が鬼鮫から手を離して波平の方へ足を踏み出す。
ーいや待て。冗談じゃない。
咄嗟にその髷を鷲掴みして、鬼鮫は牡蠣殻を引き戻した。
「牡蠣殻さん?」
「何ですか、干柿さん。貴方はどうも髷を掴むのがお好きなようですが、もしかして髷が欲しいんですか?だとしてもあげませんよ。どうしても欲しいのであれば根気よく髪を伸ばして自前でぎゃふッ」
「髷なんか要りませんよ」
目の前で牡蠣殻がはたかれるのを見て波平の半眼が開いた。
「なら止めて下さいよ。もげたらどうするんです。貴方には無用でも私には要り用なんですから」
頭を撫で擦りながらしかめ面する牡蠣殻と渋い顔の鬼鮫を、興味深そうに見比べている。
空気を読まない牡蠣殻の反応に傷付いた様子はない。意外に図太いらしい。いや、慣れているのだろうか、こういう牡蠣殻に。
「…ちょっと来なさい。話があります」
波平の視線を無視して、鬼鮫が顎をしゃくる。
「…何ですか?厭だな」
厭じゃないだろう、この馬鹿女。
「ここで話しても構いませんが」
波平と牡蠣殻が同時に鬼鮫を見る。鬼鮫は顎を引いて瞠目した。
プレイリードックに向かって話しているような気になる。