第16章 迎えに来たんだ。
「ええ、忙しくて堪りません。しかも更に懸案が増えましてね。手が回りきらないので補佐を連れ戻しに来ました」
波平は懐から出した手を鬼鮫の後ろに向けて伸ばした。
「磯辺。話があります」
黒い外套を纏った鬼鮫の陰、半ば重なる格好で半身を見せていた牡蠣殻が動いた。
見慣れてきた牡蠣殻の姿が目に染みた。
腹が、胸が、喉が、目が、ぎゅっと縮こまる。締め付けられて苦しいのに、不快ではない奇妙な心地。
磯辺。
何の変わりもない磯辺。
相変わらずの格好だが、眼鏡が消えたままの顔に膏薬が目立つ。顔色は想像していたより悪くない。それで少しく肩から力が抜けた。
「おはようございます」
力の抜ける第一声が牡蠣殻らしい。
驚きと引け目、そして何故か気恥ずかしげな曰く言い難い表情で珍しく口籠る牡蠣殻を横目に、鬼鮫が皮肉な笑みを浮かべて腕を組んだ。
「こうも無粋な刻限に現れたからには相応の事情があるのでしょう」
「無粋、ですか」
波平の眉根が寄った。
改めて鬼鮫と牡蠣殻を見る。
…そういう事か…。
牡蠣殻の気恥ずかしげな表情が腑に落ちた。口中に苦味が満ちる。
また出遅れた訳だ。つくづく遅いな、私は。
だがそれが何だ。大事なのは今これからだ。出遅れたからといってそれで全てが決まる訳ではない。
波平はもう一度牡蠣殻に手を差し伸べた。
「先生のお子が木の葉に居る」
「え」
牡蠣殻のみならず、鬼鮫も僅かながら驚きを見せる。その様に溜飲が下がった自分を内心嘲笑いながら、波平はひたと牡蠣殻に目を当てた。
「磯で育てて欲しいと使いが来た」
「使いが?…え?…と、いう事は…」
言いかけた牡蠣殻が次を呑む。
杏可也さんも一緒なんですよね?
波平は首を振って伸ばした腕の先で掌を開いた。
「姉さんはいない。お前に手助けして欲しい。迎えに来たんだ、磯辺。お前が必要だ」
やっと言えた。やっと出来た。散開から、いや、散開前から言いたかった事、したかった事。
腰の座らない磯辺を、待つのではなく迎えに行きたかった。側に居て、助けたり助けられたり、互いを必要とし合う仲になりたかった。
立場や建て前で圧し殺していたものが鎖を切った。
「一緒に来てくれ、磯辺。私はやっと、お前を迎えに来たんだ」