第15章 ならそのままで
「うん。ここのうちは朝が早そうじゃえ?わちに用なら手早く済ませなされよ」
顔を突き出したまま言う伊草は庭に下りる風もない。
人影はゆらっと首を傾げて何か逡巡している様子。
「家人が来たらわちはこの雨戸を閉めるでの。ここに預けられたのは火影の考えてあっての事だえ。無闇にお前さんと話しやるのはよろしないわいな、もし」
「磯辺が来たら」
人影が口にした名前に伊草の首が伸びる。
「磯辺?…磯辺が来たら?」
「あなたは磯辺の体を診る事が出来ましょうか」
張り詰めた声音を耳にしたヒナタは、口元に手を当てて身を縮めた。
何か大切な話をしている。聞いていていいのだろうか。でも、立ち去る勇気が出ない。今動いて気付かれたら、反って話を台無しにしてしまう気がした。
「わちは薬師ではないえ。わちは商売人、交渉して金を稼ぐのが務めだったでの」
「そうですか」
溜め息のような人影の声。
伊草が雨戸の隙間から突き出した頭を傾げた。
「しかしわちも草の人間故、磯にはわからなんだ事を知っていないでもなかろうよ。磯辺の助けになるのなら、出来る事はするわえな」
「…それは有り難い。ならば是非にもご助力頂きたく思います」
「波平殿」
話を切り上げる気配を読み取った伊草が、人影を呼び止める。上っ張りの裾を翻して踵を返しかけた人影が振り返った。
「連れ戻そうとも恐らくいずれ磯辺は草に戻るえ?あそこには磯辺の大事な人がありよるでの、もし」
「それは草に限りませんよ」
上着をバサッと捌いて、人影が笑いながら答える。
「ですが磯辺が草に戻る事はもうないでしょう。あれの大事な相手は草にもういない」
「……はて。それは委細皆承知の上で口に上せた話かの?」
伊草の声が固くなった。人影がフッと笑い声を洩らす。
「海士仁が来たと言えばわかりましょう。磯辺は磯に戻ります。詳しい話はまた後程。今は磯辺の帰りを楽しみにお待ち下さい」
ヒュッと霧が渦を巻いた。
「……!」
冷たい空気を縫うように、ヒナタのところまで不思議な風が吹いた。初冬になろうと言うのに、早苗月、五月の頃を思わせる清爽な風。
それと共に人影が消えた。
「……」
瞬身の術とは違うその不思議な消え方に、口元に寄せられていたヒナタの手が脇に垂れた。
これが磯の技なんだ。