第14章 磯辺に鬼鮫 ー裏ー
重ねた唇の隙間からどちらのものともつかぬ喘ぎの吐息が漏れた。
怒張したものが痛みを伴って疼く。
荒々しく長い髪を手に絡めて牡蠣殻を引き離し、その顔を見る。
濡れた唇、紅を掃いたような切れ長の目元、潤んで黒目の勝ち始めた瞳、赤らんだ頬。
全部私のものだ。
全部。
牡蠣殻が笑った。他意もなく笑み零した。
不意に許されたと思った。
何故そう思うのか。意味も根拠もない。必要すら。
なのに、何故。
腕に纏わる長い髪ごと引き寄せて瞼に口吻ける。目を閉じない牡蠣殻の瞬きが鬼鮫の唇をくすぐった。
鬼鮫が牡蠣殻の血に怯まなかったように、牡蠣殻は鬼鮫を怖がらない。初めから、互いに。だから今こうしている。
割れ鍋に閉じ蓋。
口角が上がった。フッと笑う息さえ漏れる。
「可笑しいですか?」
間近で牡蠣殻が嬉しそうに問うた。鬼鮫は眉を上げて牡蠣殻を見返した。
「何で嬉しがってるんです」
「いや、干柿さんが笑ってるから」
「変わってますねぇ。私が笑うと嬉しい?何かいい事でも起きると思ってるんですか?」
「経験則に拠ればロクな事ないですねえ」
「でしょうね。わかってるじゃないですか」
「貴方は人を痛め付ける他にあまり自分を表さないから」
牡蠣殻は身を竦めるように笑って鬼鮫の胸に頭を擦り付けた。甘えたさに堪りかねた猫を思わせる仕草に鬼鮫は驚いた。
「こんなに身近く笑っている貴方を見られるのが何だか凄く嬉しいんですよ」
見慣れた涙が黒い目に溢れ返った。
牡蠣殻の手が鬼鮫の傷付いた額当てに触る。
「会う度別れる度これが最後かと思います。可笑しいですね。さして一緒に居た訳でもないくせに、不思議に貴方が恋しい。怒られても傷付けられても何故こんなに貴方と居たいのか。…草で離れたときは、辛くさえあった」
ぼたぼたと流れ落ちる涙に深水の言葉が思い出された。
牡蠣殻の涙は夕立ちのようなもの。
鬼鮫は静かに、けれど盛大に泣く牡蠣殻を眺めて、記憶の中の深水のしかめ面に苦笑した。
あなたは優秀な薬師ではあったかも知れないが、人の心には私以上に疎かったようですよ。
小さな子供のように体を寄せて泣き続ける牡蠣殻の背中に手を回し、息を吐く。
少なくとも、あなたの教え子で患者で、あなたを想い続けていたこの人の心に関しては、間違いなくあなたは暗愚だった。