第14章 磯辺に鬼鮫 ー裏ー
ただ何もなく泣く、本当にそれだけの涙などある訳がない。
痛みや苦しみを抱えずに居る者がいないように。
今こうして牡蠣殻を抱きながら、鬼鮫は牡蠣殻の底を見たと思った。
この女は臆病なのだ。
臆病故に人と交わる事を断ちながら、未練がましく人を恋うる気持ちを捨て切れず、茫洋と周りを見ぬ様に身を縮めて来たのだ。
牡蠣殻の涙は夕立ちではなく万年雪の留めきれぬ勇水だ。
この女はもう逃げ水ではない。少なくとも鬼鮫にとっては。
「牡蠣殻さん」
「はい"」
鼻声が返って来る。暁の厠でのやり取りが思い返された。また苦笑が漏れる。
会う度ロクな事がない。が、それでもいい。牡蠣殻がそこに居るのなら。
「…私はあなたを見付けたと思っていましたが、もしかしたらあなたも私を見付けたのかも知れませんね」
「はい"?」
牡蠣殻は不思議そうな顔をした。言葉こそ足りないがストレートに伝えたつもりが、てんで伝わっていない。いきなり空気を読み損ねている。鬼鮫はその顔を大きな手で捕まえて口吻した。
欠落している部分も含めて、この女は私のもの。
肩から単衣を外す。抵抗はない。
首に掛かる筈の鎖は今サソリの懐にある。
傷に擦れて痛くなかった筈がないが、きっとこの女はあれを自分では一度も外さなかっただろう事が今ははっきりと確信出来る。
菊塵の単衣から細身だがしぶとげでしなやかな肩の線が現れた。
「意外に体が出来てますね」
「…肩幅が広いってんでずが?何か嬉じぐないですね、このタイミングで言われでも」
「まあそりゃそうでしょうねえ」
「貴方も意外に欠落じでると思うんでずよ」
「今気付いたんですか。人にとやかく言うからといって必ずしも自分がその通りでないのはよくある話です」
「…うわぁ…。面の皮が厚いどは正にごの事でずねえ…」
急には止められないらしい涙を流しながら牡蠣殻が顔をしかめる。それがひどく牡蠣殻らしくて鬼鮫は苦笑いした。
「人の事が言えますか」
「ぞごば先刻貴方が言った通りでずよ。お互い様です」
「何度も言うようですが、あなたと私の間にはお互い様という相互関係は成立しませんよ。いい加減理解したらどうです」
「…安定じでまずねえ…」
「慣れなさい。そして鼻をかみなさい」
言われて鼻をかんだ牡蠣殻は、顎を捉えて目尻の涙を舐めた鬼鮫に愕然とした。