第1章 楽天地
不意に瞼の裏が眩しくなって、憲兵は目を覚ましました。
水の匂いが鼻をくすぐり、何処かで羽虫が飛び回るぶんぶんと呑気な音が聞こえて来ますし、風も少し吹いていて、草や木立がさやさやと揺れる音までするのです。
憲兵はすっかり嬉しくなって、俄かに目を開けるのが惜しくなり、そのままちょっと眠ったふりをして横たわっていました。
フと、水や草の匂いに混じって甘い匂いがします。
それはどうも、花の匂いのように思われました。
憲兵はハッと目を開いて起き上がりました。
どうしてか身体の勝手が違うような気がしましたが、構わず辺りを見回すと、水辺の木に咲く花の中に一房、紅い花が咲いていました。
憲兵は目を見張って水辺へ走りました。身体は随分重くて自分のものでないようですし、一歩踏み出す度に辺りが揺るぐような地響きが上がりますが、そんな事をきにしてはいられません。
憲兵は息せき切って水辺へ辿り着くと、紅い花の下に跪きました。
紅い房は一際高貴な甘い匂いを辺りに放って、特に睦まじそうに花を寄せ合わせて咲いています。
きっとこれは、まごうこと無く姫の花。
他愛もなく睦まじい王家の花。
切なく涙を落としながら、姫、と呟いた憲兵は、ぎょっとして息を呑みました。
耳に入って来たのは聞き慣れた我の声音ではなく、まるで大きな筒の中を風が吹き抜けたような、不快で気味の悪い音なのです。
吃驚して泉を覗き込むとそこに居たのは、粉を水で練ったような身体をした、ただただ大きく愚鈍な生き物でした。その生き物には、手と足があって成る程胴体と頭もありますが、それだけです。体毛は一本も見当たらず、耳らしい小さな突起に鼻と口らしい穴が三つ、それに真っ黒で真ん丸い目がぽつん、ぽつんとあるだけなのです。
憲兵は水辺に膝をついたまま、黙って自分の新しい姿を見詰めました。
水面のその化け物は、自らの涙の波紋に頼りなくその輪郭を揺らしながら、矢っ張り黙ってぽかんと憲兵を見返します。
憲兵は不意に鈍い身体を反らして空を大きく仰ぎ見ると、ぼえんと悲しげな声で、細く長く、苦しげに鳴きました。
涙が平らな頬を濡らしても、憲兵にはもう、それが熱いのか冷たいのかも、わからない。
そうしてそれきり、辺りはまたのどやかに静まり返りました。