第5章 黄昏エスケープ〔千歳千里〕
千歳がゆっくり立ち上がった。
さして驚いた様子でもないことに、私の方が面喰らう。
私の髪を優しく撫でて、千歳は笑った。
「嫌なこつ、あったと?」
「ん…」
「無理に言わんちゃよかばってん」
「なんか、いろいろ。疲れちゃった」
「そうか」
千歳が私の手を包み込む力が、少し強くなった。
「さっき駅で見かけたとき、泣くんやなかかっち顔やったけん、放っとけんで引き止めたとよ」
「…え、嘘」
「泣きたかなら、泣いたらよか。胸くらい、いくらでも貸しちゃるけん」
見上げたら、私の大好きな、あの豪快な笑顔だったから。
千歳の言うとおり泣きたかったのかもしれないけれど、つられて笑ってしまった。
「駆け落ちもよかばってんね…俺はご両親にちゃんと挨拶ばしたかけん、こんままはちーとまずかね…」
奥歯にものが挟まったように、急にもごもごと話し出した千歳。
その言葉にきっと、嘘は一つもない。
彼は、そういう人だ。
「ありがと」
「ん?」
「駆け落ちの話、考えてくれて。嬉しかった」
「…ああ」
「わがままついでに約束、聞いてくれる?」
「なんね?」
「いつか、両親にちゃんと挨拶して、私のこと迎えに来てくれる?」
千歳は目をぱちりと見開いて、今度こそ驚いた顔をしたけれど。
すぐにまた笑って、言った。
「なら、約束すっばい」
優しすぎる言葉と一緒に、キスが降ってくる。
触れるだけのキス。
甘くて優しいキス。
「いつもより顔の近かけん、キスばしやすかね」
ヒールの高いサンダル。
長時間履いていて少し足が痛かったけれど、千歳と会うときはまた必ず履いてこようと思った。