第3章 夏の思い出(2)
階段を上りきる直前、最初に俺に気づいたのは男の方だった。
「白鳥沢のウシワカ…」
聴き馴染んでしまっている呼称が男の口から発せられた。
彼女は、男のその言葉で弾かれたようにこちらを向いた。俺が通路に着くと同時だったかもしれない。
「…牛島くん⁉︎」
驚きは声音だけではなく、その表情にも満ち満ちている。
そうでなくても大きな目がより一層大きく見開かれていた――そう、大きな、目。不思議と釘付けになる目だな、と場違いなことを思う。
「なんでウシワカが…?」
乱入者である俺を訝って、男が独り言を呟く。
それに対する明確な答えを持ち合わせず聞き流した俺に代わって、即座に反応したのは彼女。
ごく自然な動きで男の手を払いのけ――よく見ると、腕を掴まれていた――、男の方へ視線を固定させながらも少し距離を取ってから口を開いた。
「川西くん、彼の名前は『牛若』ではなくて『牛島』。本人を前にして、それは失礼でしょ」
言葉遣いは柔らかい。
だが、明らかに相手を諫めている口調。
…他人が、俺の名前や呼び方に対して、そんな風にわざわざ指摘したことなど今まであっただろうか?
答えは「否」。
俺自身、聞き流すことの方が多い。
(律儀だな…)
起こった出来事の珍しさに俺は目を見張ってしまう。
もっとも、次の瞬間には目を見張るどころか息を飲んでしまったのだが。
「川西くん…さっきの話の答え、『牛島くん』。…私、牛島くんと付き合っているの」
彼女が、一歩、“川西”から俺の方へ近づきながら放った台詞。
「…えっ、天海⁉︎ ウシワカと⁉︎」
“川西”が、信じられない、と言外に響かせながら叫ぶように言った。
心境的に、俺も似たようなものだ。
――誰と、誰が、付き合っている?
提示された話にまるでついて行けず、不可解さに眉根が寄る。
その顔つきのまま、こちらを向いた彼女と視線がぶつかった。
彼女は、懇願するような表情。
(…話を合わせろ、ということか?)
鈍い鈍いと周りから言われる俺でも、さすがに察する。
理由はわからぬまま、やや不本意ながら、用意された舞台に立つことに承諾して、彼女の名前を呼んだ。
名前は、確か、そう――。
「天海」