第3章 夏の思い出(2)
名前を口にした瞬間に、彼女の目が再び丸くなった。
そんな反応が返ってくるとは思わず、俺は反射的に聞き返す。
「どうした?」
名前が間違っていたのか?
いいや、そんなことはない。
目の前の“川西”もそう呼んでいた…と思い起こしたところで俺は自分の過ちに気付いた。
彼女は1つ年上だ。
(呼び捨てにすべきではなかったか…)
天海さん、あるいは天海先輩。
そうあるべきだったのだろうと思い至り、しかし、今さら取り返しのつく話ではない。
俺は、自分の無礼さと彼女を驚かせたこと、どちらも後で謝罪することにして、この場を切り抜ける話題を探す。
話せることなど無いに等しいが、たった1つだけ、頭に浮かんだものがあった。
「天海…今日の試合、勝ったぞ」
聞いた彼女は、俺のその言葉を耳にして――笑った。
ふわっと。
心底嬉しそうに。
「おめでとう!」
祝辞に、俺は鸚鵡返しに尋ね聞く。
「…おめでとう?」
「え、なに? なにかおかしい?」
「昨日、勝てと言っただろう?」
俺は、命じられたままに勝った。
「良くやった」と言われるならまだしも「おめでとう」。
不思議な気がして、俺は彼女を凝視する。
彼女は、瞬きを数回繰り返した。
そして、さっきまでの柔らかい笑みではなく、今度は吹き出して声を立てて笑い出した。
「何がおかしい?」
「ううん、何でもない…言った、言いました、私、確かにあなたに言いました!」
結った髪をそれこそ動物の尻尾のようにチラチラと左右に揺らして、彼女は笑う。
少し眩しいくらいの笑顔。
…不意に、この人は一体誰なんだろう、と妙な感覚に陥った。
昨日知り合った他校の3年生。天海ありさ。
それが揺るがぬ事実なのだが、昨日とも雰囲気はまるで違うし、いま、ここに来てからも次から次へと異なる様相を見せて、全てが同一人物とは思えない。
俺は、何かを確かめたくなったのか、改めて名前を呼ぶ。
「天海…?」
彼女は、笑いを抑えるために口元に当てていた自らの拳を退かして、まだ弧を描いたままの唇を俺に見せながら「ごめんなさい、『おめでとう』じゃないね」と話し始めると、こう言葉を継いだ。
「ありがとう、だね」