第8章 軍隊狸ーゴールデンカムイ、月島ー
奉天会戦と言えば実質的に日露戦争の勝敗を決し、また、鶴見中尉の前頭葉が噴き飛んだ一戦でもある。
「敵兵のひしめき合うあの場所で君はどんな一夜を過ごしたのかな」
「……」
鶴見中尉の輝くような笑顔を見、月島は火箸を火鉢の灰に刺した。
第七師団の極端な人材、所謂奇人や変人の総本山がこの鶴見中尉である事は間違いない。しかしその鶴見を筆頭に第七師団は優れた人材に恵まれているのも否定しようがない事実だ。多少頭のネジが弛んでいようとも外れていようとも厄介な事に彼らは非常に優秀な軍人である。それが一層月島の苦労に拍車をかけるのだが、本人は既に諦観しているので如何程の事でもない。面倒を背負い込むのはいい。やむを得ず慣れている。しかしそういう連中の物笑いの種になるのはまた別の話だ。ここは口を噤んでやり過ごしたい。
「月島軍曹?是非話して聞かせてくれないかなあ。奉天会戦の一夜を」
近い。近い近い。覗き込んで来る鶴見中尉の顔が近過ぎる。月島は顔を顰めて背筋を反らした。
「面白い話などありません」
「んんー?そう言い渋るところを見ると相当面白いのだろう?面白くない話ならむしろすらすら吐いてしまうものだからな」
「そんな事はありません」
面白いかどうか、そこはものの見方の違いだろう。
思っても口にはしない。しても喜ばれるだけだ。
「…赤い軍服」
肩に着く程首を傾げた鶴見中尉がぽろりと漏らした。刹那目をくっと見開いた月島が、今度はその目を眇めて口辺を下げる。
座敷に奇妙な緊張が走った。
パキと、また炭が爆ぜる。
月島は火箸を取って灰を均し、図らずも動揺した我を宥めた。
鶴見中尉はご存知なのか。あの、赤い軍服の……。いや、さもありなん。"アレ"は戦地で随分人口に膾炙した。赤い軍服、丸に喜の字。
気付けば灰の上にへのへのもへじを描いていた。
「…月島軍曹。灰に落書きなど愛宕の罰が当たりますよ…?」
妹夫婦と在所の虫養いに纏わる話を語った男が、東北訛の残る朴訥な言振りで月島を嗜める。マタギをしていたこの男は、生真面目過ぎて何処かズレたところもあるが屈強な兵士だ。鋭い眼光は人をたじろがせるが寡黙で一心、重ねて純、信用に足る。
「中尉のお尋ねに答えんのですか。月島軍曹らしくもない失礼ですなあ」