第8章 どうか無いものねだりでも
行かないで...。
その一言さえも言えず、ただ立ち尽くす私。
去っていく影は遠くなっていく。
どうして今になって出会ってしまったんだろう。
もっと早く出会いたかった。
...いや、それは違う。
変わらないままの自分で会いたかった。
待ってと言えないのは、きっと私は薄汚れてしまったからだろう。
見た目の話だけじゃない。
ずるい女になってしまったからだろう。
冷たい涙が頬を流れていく、もし振り向いてくれたらと淡い期待をしている私はもうあの頃の私とは違う。
どうか振り向いてと思ってしまうずるい私が、どうしようもなく嫌いだ。
遠くなる影、遠ざかる足音。
もうあの頃には戻れないんだと嫌でも思い知らされる。
「さよなら、一松くん」
聴こえることの無い言葉を小さく呟き、私は彼とは別の方向を歩き出す。
一松くんの背を見続けていたら、きっと私はここから動けないだろう。
無いものねだりをし続けてしまうだろうから。
コツンコツンとヒールを鳴らす。
乾いた空気のせいかよく響く音。
ゆっくりでも確実に離れていく。
けれど、ピタリと止まる足。
そうだせめて一松くんの姿だけでも最後に目に焼き付けておこう。
それくらいなら許されるはずだ。
くるりと後ろを向く。
その瞬間、目と目があった。
まさか一松くんもこちらを向くなんて思っていなかった。
涙の跡が向こうに見えない事を祈る。
随分と遠い距離だから、きっと見えるはずなんてない。
卒業式のあの日、私は彼を泣いて見送った。
あの頃の私は感情を素直に出せる子だった。
けれど今は大人だ。
ずるい女だ。
だから、最後なら一松くんの心の中に泣いた顔で残りたくはない。
冬の名残風が頬を乾かす。
私は少しずつ口角をあげた。
これが最後の無いものねだり。