第8章 どうか無いものねだりでも
〜主人公side〜
ちゃんと好きだったよと言われて、嬉しい反面少し切なさが胸を締め付けた。
「一松くん、苦しいよ」
私を抱き締めている少し震えている腕が、苦しい。
だったよっていう言葉は過去形で、もう今の時間ではないんだとそう思えばなおのこと。
何年前の話を持ち出してきたものだろう、けれど私達の時間はそこで止まっているのだから仕方ない。
風が冷たい。
離れた身体から熱を奪う冷たい風。
どうかこの体温を奪わないで欲しいと願っても、そんな願いは虚しく風にさらわれていく。
私から少し離れた一松くんは、そっと本を拾う。
そして思い出したようにポケットをまさぐり、短めな一言とともに渡されるコーヒー。
いつ買ったのかはわからないが、コーヒーのぬるさが手に伝わる。
一松くんは何も言わないが、ずっとこの場所で待ってくれていたのだろう。
熱すぎず冷たすぎないそれは、一松くんの優しさと似ているような気がした。
胸が苦しい。
言葉がでないのだ。
この複雑な気持ちを表す的確な言葉なんて誰が思いつくのだろう?
どんなに素晴らしい物語を描く人でも容易ではないはずだ。
皮肉混じりのあの作者はなんと答えるだろう?
純粋な気持ちを描く作者はなんと答えるだろう?
考えれば考えるほどに頭の中に紙くずの山ができる。
皮肉混じりのあの作者はこう答えるだろう。
理想を描けるのは紙の上だけだと、自分は臆病者だからこそ美しい言葉は紙の上でしか吐かないと。
純粋な気持ちを描く作者はこう答えるだろう。
この気持ちを伝えれないのならば、いっそ言葉など無くなってしまえばいいのにと。
それほどまでに胸につっかかるモヤついた気持ちは言葉にも何にもならなくて、ただ手の上のコーヒーを冷ましていくだけだ。
「それじゃあ」
ハッとすれば私とは別の方に歩いていく紫色。
足が動かない。
鉛のように重い足。
...行ってしまう。
もう二度と会うことはないだろう。
何故かその言葉が私の心の底に落ちていった。