第8章 どうか無いものねだりでも
誰だ、私のコートを濡らしたのは。
そんな苛立ちに手元をみれば、見覚えのある藤色がポツンと闇から現れた。
「これ...忘れてたんだ」
やっと持ち主に会えたとでも言いたそうに藤色のブックカバーがかかった本が私に触れたのだ。
彼を想い流した涙を受け止めたそれは、もう色あせていて綺麗な藤色ではなかったが捨てるに捨てれなかった。
そっと撫でる藤色、優しいその色に想うのは1人だけ...。
当時行きつけだった小さな本屋さんで見つけたそれは、一目惚れというやつだった。
少ないお小遣いから意を決して買ったちりめん生地のブックカバー。
数多ある色の中からそれが目に付いたのは、彼の好きな色だったからだ。
その事を恥ずかしくて彼に伝える事はなかったが、いい色だねとほんのすこし口角を上げ笑ってくれた事を覚えている。
不器用な彼の笑顔を見て、私はまた彼を好きになった。
そんな想いのつまったものだからこそ、捨ててしまおうかと悩んだ時期があった。
見る度に彼を思い出して胸が痛く、苦しくなる。
そんな事は当たり前で、わかりきっていることなのに捨てる事はできなかった。
これを捨ててしまったら、一松くんの事を本当に忘れてしまいそうで怖かったのだ。
なんて馬鹿なのだろう、忘れてしまいそうなほど小さな思い出だというのに、それだけなのに...。
そっと胸に抱き寄せてきつくきつく本を抱き締めた。
暖かくも、冷たくもない、色あせた藤色は私の想いそのものだ。
泣いた。
月も、抱き締めた藤色も、目の前の景色も、なにも見えない。
生まれて初めて声をあげて人を想い泣いた。
あの帰り道の日、虫に食われる前にと摘んだ花は手を傷つけるだけだと思っていた。
虫から守る為にと無意識で花瓶にいけたとしても、結局は枯れてしまうはずだったのに...。
こんなにも心が痛いのは何故?
傷ついた手は何年もズキズキと痛み続けている。
ならいっその事自分勝手だとわかっていても、彼に摘まれたかった。
それならば諦めもついたのに、彼は何も言わずに行ってしまうんだ。
あの時も、今も...。