第8章 どうか無いものねだりでも
それから月日は流れ、あの懐かしい失恋の記憶をすっかりと失った。
ぽっかりと空いた胸を満たすのは、至極簡単なこと。
結んでいた髪を下ろし、それなりに身なりに気を使えば寄ってくる男は少なからずいた。
若さは宝だと聞くが、本当にそうだろう。
特別な事はしていないが、普通にしておけば普通に付き合う事もまた容易だ。
他の男の腕の中に抱かれ、その熱さに身を委ねて目を瞑っていれば事は淡々と済む。
触れ合う手と手が重なり合えば自然と胸がなる。
それは当たり前の事、時間が過ぎれば当時の事ましてや子ども時代の事などすっぱりと抜け落ちていく。
そうして人は大人になっていくのだ。
恋を愛と言うようになるまで、私は何度この季節をやり過ごすのだろう?
社会人になり、いく度目かの春の始まり。
暦では春だというのに、風はまだ冷たく木々は桃色に色づく途中だ。
あの日、卒業式でみた色と同じ。
1人公園のベンチで深く息を吸いこむ。
ひんやりとした空気が肺を通れば、重々しいオフィス内の空気を取り込んだ肺を浄化してくれているように感じた。
青々とした空、雲が漂う様子もなく。
流れる雲がないからこそ、時が刻一刻と過ぎていることを忘れそうになる。
かちこちと微かになる腕時計が、時を刻んでいるという道しるべだ。
時に耳をすませていれば、それ以外の音も聴こえてくる。
子どもの可愛らしい声、子どもを注意する親の声。
穏やかな時間が過ぎていく。
にゃあっと一声猫の鳴き声が聴こえ、足元を見れば愛らしい三毛猫が私の足元に擦り寄っていた。
柔らかい毛並みの感触が足から伝わって、くすぐったい。
「まだ、寒いものね?私にも貴方のぬくもりをわけて?」
ふっと笑ってそうっと三毛猫を抱き上げる。
手のひらに伝わる温もりに目を細め、何度も何度も撫でれば思い出す。
「そういえば、一松くんも猫が...」
その瞬間、目の端にうつった紫。
卒業式の日に見失ったその背が、私の目の前に現れた。