第8章 どうか無いものねだりでも
時間は心の傷を癒すというが、まさにその通りだ。
いや鈍らせるといった方が正しいのかもしれない。
風が冷たくて強く吹いていた3月、桜の蕾がほんのりと桃色に色づき春を待つ季節。
体育館に均等に並べられた席は、足元がひんやりとし小さなすすり泣く声があちこちで聞こえる。
これで最後だねと小さく言い合うクラスメイトに、嫌悪感を抱くのは何故だろう。
ぎゅっと握りしめる手だけが熱を出すが、足元は冷たい。
私のちぐはぐな心のようで滑稽だ。
寂しいという気持ち、悔しいという気持ち、さまざまな想いをこの小さくまとめられた席で思い返す。
けれどそんなもやもやした想いは、彼を見た瞬間消え去っていった。
「松野 一松」
「...はい」
いつも側で聞いていたはずの低い声が体育館の遠い所で響いた。
これが一松くんを最後に見た日だった。
猫背の彼は6人の兄弟の中でも後ろ姿が見つけやすい。
けれどこの日卒業証書を授与する為、舞台へとあがっていく姿は背筋がピンと伸びていて大人びて見えた。
私の前を横切り目も合わせず歩いていく姿に、胸を焦がす。
視界が霞むのは、何故だろう?
卒業式と書かれた看板も、立派な花も、舞台へとあがっていく為の赤い階段も、目の中で混ざってなにも見えない。
私は3年間着ていたセーラー服の袖でその元凶を吸った。袖だけ濃い色にかわり、ふとこの色こそ私の想いだと思い知る。
後悔よりもっと深い感情は言い表すことなどできはしない。
擦れたまぶたの下がヒリヒリと痛む、きっと今の私は情けない顔をしているんだろう。
彼の姿を覚えていられますように、私の脳に刻み込まれますようにと必死に彼の背を見つめた。