• テキストサイズ

短編集【庭球】

第16章 エゴイストの恋〔手塚国光〕


それにしても、時間がかかっただろう。
この量の書類をほぼ完璧に埋めることはもちろん、俺の字にこれだけ似せることも大変な作業だったはずだ。
時折目を通すことにしている議事録には、もう少し女性らしいたおやかな字が並んでいたから、出来上がった書類を手本にでもしたのかもしれない。

林にはプログラムの印刷発注を頼んでいたから、印刷会社から戻ってきたところで俺が寝ていたのを見つけたのか。
すでに自分の仕事は済ませていただろうに、申し訳ないことをしてしまった。
電話かメールでもいいが、やはり直接謝るのがいいだろう。


ぱらぱらと付箋の数を確認していると、一番下にあった書類の下に留学のパンフレットがあることに気がついた。
ドイツに行くかどうか迷い始めてから、なんとなくいつも持ち歩いていたものだった。
書類を片付けている途中、休憩がてら眺めたのを思い出す。
そのまま書類の一番下に入れて、また作業を始めた途端に眠気が襲ってきたのだ。


林はこのパンフレットを見ただろうか。
まだ誰にも話していない留学のことを、どう思っただろうか。

胸が妙にざわついた。
バスに乗り込んでいつものように参考書を開いたが、視線が字面を滑るだけで頭に入ってこなかった。




次の日、朝練を五分早めに切り上げて林の教室へ向かった。
扉のそばにいた男子生徒に呼び出してもらって、立ち話で邪魔にならないよう、廊下の隅で待つ。
手のひらに握り込んだ青い付箋から、ありもしない温もりが伝わってくるような気がした。


「おはよ、珍しいね。急ぎの用事でもあった?」


俺の見立てが間違っていたのではないかと不安になるほど、林は何も知らないような口調で出てきた。
林が書類を片付けてくれたのではないのかという疑問をぶつけると、困ったように視線を左右に動かして、自分ではないと言い張る。
付箋を見せるとすぐに観念したように認めたが、最初の不自然な否定の仕方に違和感が残った。
/ 538ページ  
スマホ、携帯も対応しています
当サイトの夢小説は、お手元のスマートフォンや携帯電話でも読むことが可能です。
アドレスはそのまま

http://dream-novel.jp

スマホ、携帯も対応しています!QRコード

©dream-novel.jp