第16章 エゴイストの恋〔手塚国光〕
少なくとももう一時間半は眠り続けている手塚くんを起こそうかどうか、少し悩んだけれど。
なんとなく自分の痕跡を残してはいけないような気がして、やめておいた。
もしこのままでも、完全下校の時間になったら用務員さんが見回りに来て、起こしてくれるだろう。
電気をつけたままにしておけば、必ず気づいてもらえるはずだ。
泥棒になれるかもしれないと思うほど、音を立てずに生徒会室を出た。
階段まで忍び足で歩いて、そこから先は思い切り走った。
バス停に着くころには息が切れて心拍数も上がっていたけれど、あのパンフレットを見たときの、内側から殴られたような心臓の音とは、比べものにならなかった。
家に帰り着いても、夕飯を食べてもお風呂に浸かっても胸のざわつきはおさまらなくて、受けたショックの大きさを物語っていた。
手塚くんは学校一の有名人だから、その彼が留学するなんて話はきっと瞬く間に全校に広まってニュースになってしまうと思うけれど、そんな噂は聞こえてこない。
つまり、まだ留学そのものを決めていないか、あるいは決めたけれど誰にも言っていないかのどちらかだ。
いずれにせよ、あのパンフレットは誰かに見られる予定のものではなかったはずだ。
まじまじと目を通したわけではないけれど、表紙に小さく載っていたのはドイツ国旗だった気がする。
全国大会へは並々ならぬ思い入れがあるみたいだから、大会のある夏休みを使って留学へ行くというのは考えにくい。
ならば、行くとすれば二学期以降なのかもしれない。
「ドイツかあ…遠いなあ…」
思わず漏れた独り言は、明かりを消した部屋の暗闇に溶けた。
寝つきのよさだけが取り柄なのに、なかなか眠れなかった。
次の日、登校するとすぐに、手塚くんが私の教室にやってきた。
クラスも離れているし、生徒会での用事はたいてい放課後にまとめて済ませてしまうから、こんなことは滅多にない。
とすれば、昨日の放課後のこととしか思えない。