第74章 Flavor of love〔亜久津仁〕
このドレスショップの前を通ったのはいつぶりだっけ。
前に見かけたときにディスプレイしてあったのは、派手なカラードレスだったと思うのだけれど。
ふわりとかぶせられたベールもとても繊細で、ウエディングドレスという服が特別なものだということを本能的に感じる。
無機質なオフィスビルが立ち並ぶこのエリアで、ここだけに光が差して周りの景色から浮き出ているような、あるいは神様に守られているような、そんな気さえした。
「将来はお嫁さんになりたい」だなんて古式ゆかしい夢を抱いたことは一度もないけれど、いざ圧倒的な美しさを目の当たりにすると、いつか袖を通してみたいと思ってしまう。
「…何してやがんだ」
その声に振り返ると、片手をジーンズのポケットに手を突っ込んだ仁が訝しげな視線をこちらに投げていた。
「ん、綺麗だなあって思って」ともう一度ディスプレイに向き直る。
「仁もそう思わない?」
「あ? …興味ねえ」
しまった、と思った。
彼が地を這うような低い声を出すのは、決まって機嫌の悪いときだ。
男の人にこれ見よがしに結婚を意識させるようなことを言うのは逆効果、と書いてあったのはこの間美容院で目にした雑誌だっただろうか。
仁には結婚を迫られているように聞こえてしまったかもしれない。
私としては単純にドレスに見惚れてしまっていただけで、歳下の、ましてやまだ大学生の恋人に、今この場で結婚を迫る気はさらさらなかったのだけれど。
──いや、もし彼と結婚できるのなら、それはとても幸せなことだけれど。
「…ごめんごめん、男の人は興味ないよねえ。女ならみんな憧れるよね、って話!」
からりと笑い飛ばすような口調を心がける。
思ってたより酔ってるみたい、とつけ加えたのは言い訳がましかっただろうか。
結婚を見据えながらもそれを隠していることと、結婚をまったく意識していないこととは、天と地ほどの差がある。
察しのいい仁のことだ、大人の女のいやらしさをどこかで感じ取っているのだろうなという気がした。
「そうそう、さっき飲み会で上司がね」と半ば無理やり話題を変えて、彼の部屋へと再び歩き始めたけれど、さっきまで絡めていた腕をもう一度組み直すことは、なんとなくできなかった。