第70章 夜よ明けないで〔千歳千里〕
ざあ、というシャワーを出し始めた気配で、ふと我に返った。
いけない、千里の着替えを持っていっておかないと。
クローゼットの奥から下着だの部屋着だのを引っ張り出しながら、前にこれを洗濯したのはいつだっただろうかと、無意識にそう考えた自分に気がついてかぶりを振った。
会えなかった時間を指折り数えて恨みつらみを言い募る、そんな女にはなりたくない。
洗面所へ戻ると、シャワーの水音の奥に鼻唄が聞こえた。
何を歌っているかはわからないけれど、どうやらシャンプーをしながら口ずさんでいるらしい。
人の気も知らないで呑気なものだと、思わず苦笑が漏れた。
* *
上機嫌でリビングへ戻ってきた千里は、ぼんやりと雑誌を広げていた私の顔を見るなり、何かを思い出したようにこちらへ大股で歩み寄ってきて「そういえば」と切り出した。
「あぎゃん簡単にドア開けたらいかんち前にも言うたろ?」
「え」
「せめてチェーンばせんと」
何事かと思ったらそんなことか、と少し拍子抜けする。
そういえば前にも言われたことがあったっけ。
真剣な顔をしているからもっと重大なことかもしれないと無意識に身構えてしまった身体を脱力させると、千里は私の様子が不満だったのか、憮然としたように「女の一人暮らしなんやけん」と言葉を継いだ。
ドアスコープは確認したのかとか、変な男だったらどうするつもりなのかとか、男は狼ばかりなのに警戒心が薄すぎるだとか。
常識やルールに無頓着な千里にしては珍しく口うるさくまくしたててきたのを、私は「あのねえ」とため息まじりに遮る。
「確認なんかしなくても、こんな非常識な時間にこの家のインターホン鳴らすのは千里だけよ。だいたい早く開けろって急かしてきたのはそっちじゃない」