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短編集【庭球】

第70章 夜よ明けないで〔千歳千里〕


千里は、スポーツ脳科学では有名な大学のラボで助教授をしている。
テニスのトップ選手だけが踏み入れることのできる領域、無我の境地について研究している、らしい。
というのも、論文を見せてもらったところでのっけから何が書いてあるのかちんぷんかんぷんで、私も詳しくはよくわからないのだ。

それでも、千里が研究に対して並々ならぬ情熱を傾けていることだけはわかる。
ラボに泊まり込むのは日常茶飯事。
学会があるとか、研究対象の選手が大会に出場するとあらば、身ひとつで世界のどこへでも飛んで行ってしまうから──こちらには連絡ひとつ寄越さないまま。


千里と恋人という関係になって長くなる私は、もちろんそんなことは織り込み済みだ。
千里を束縛しようなんて、これっぽっちも思ってはいない。
ただ、今日くらいはそばにいてほしいとか、電話の一本くらいくれてもいいじゃないかと思ってしまうことはあるし、加えてそれが自分の誕生日や付き合い始めた記念日の類だったりすると、自分だけが想いを拗らせているようで、切なさはもれなく倍増しになる。
そんな夜をいくつ過ごしたか、もう数えるのも嫌になってしまったけれど。

おそらく、頼めば聞き入れてくれる日もあるのだろう。
恥を忍んで可愛らしくねだれば、あるいは。
けれど、一度言い出せばきっと、私はもっと強欲になってしまう。
「今日だけでいいから」という願いは、いつしか「片時も離れないで」になるだろうし、そうして際限なく求め続ける私を千里は軽蔑するだろう。


千里を縛りつけるのは、鳥から翼を奪ってしまうようなものだと思う。
私を惹きつけてやまないのは、研究に貪欲に打ち込む姿なのであって、決してひとところにとどまって飼い殺されている姿ではない。
後輩たちからはラボに住んでいると思われているのだとか、選手を追って世界中を渡り歩いた甲斐あって研究が一歩前に進みそうだとか、テニスは次のオリンピックでメダルを期待されているから、今年は千里の研究にも国からの助成金がたくさん下りてきたのだとか。

私が好きなのは、そんなことを話しつつ少年のように澄んだ瞳で笑う千里なのだ。
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