第69章 失楽園に咲く花は〔幸村精市〕*
鎖骨まで滑り降りた指先が、倍の時間をかけて再び上へと昇ってくる。
く、と指一本で顎を上げさせられて、私の身体は抵抗するということを忘れてしまったらしい。
さっきより近くに感じる精市の顔。
私をじっと見下ろす瞳、その奥に静かに燃える炎が見えた。
なんて冷たい炎だろうか。
身体は着火しかけているのに、どこか寒気がして。
なんでこんなことになったんだっけ、と必死に頭を巡らせる。
テニス部レギュラーの面々は顔面偏差値の高さゆえか、ちょっとしたローカルタレントなんかよりよっぽど人気がある。
中でもカリスマ性のある精市の人気は飛び抜けていて、「信者」と呼ばれるファンの女の子たちの中には、狂信的な過激派、もとい敬虔さを持ち合わせた子もちらほらいる。
私はマネージャーとして、彼女たちの恐ろしさを嫌というほど目の当たりにしてきた。
女は女に対して、どこまでもシビアで辛辣だ。
だから一年前、精市と付き合うことになったときには、嬉しかった反面、割と本気で生命の危険を感じた。
それを汲んでくれたのだろう、この関係をレギュラー内だけの秘密にしておこうと提案してきたのは精市の方だった。
今年に入って真田が風紀委員長なんかになってしまったものだから、「部内風紀が乱れている」なんて後ろ指をさされないようにと、ことさら慎重になった。
同じクラスの竹田くんに告白されたのは、今日の昼休みだ。
五限目の移動教室へ向かう途中、人気のない廊下。
陽が入らずひんやりとしたそこで、「よかったら付き合ってほしい」とはっきり言った竹田くんに、私は心底驚いた。
顔を合わせれば話す程度の、ごくごく一般的なクラスメイトの関係だったはずなのに。
置かれた状況を理解するために費やされた数秒の沈黙のあと、「彼氏がいるから、ごめん」と言いかけて、私はその言葉を飲み込んだ。
「相手は誰なの」なんて突っ込まれて、精市の名前を出さなければならなくなったら困る。
そう考えて口ごもった私に、竹田くんは「変な雰囲気にしてごめんな、俺先行っとくわ」と去ってしまったのだ。
立ちすくむ私に「返事はすぐじゃなくてもいいから、待ってる」と言い置いて。