第68章 その嘘は美しいか〔仁王雅治〕
起き抜けに焼肉をお腹いっぱい食べさせられたような胸焼け感、とでも言おうか。
深い深いため息を吐いても、気分は少しも上向かなかった。
「泥棒猫、はキツいわ…」
いつものように朝練を終えて教室へ向かう途中、名前も知らない女の子から呼び止められた。
いや、よくテニス部の練習を見に来てはきゃあきゃあ騒いでいたから、正確には顔だけは認識していたのだけれど、彼女は綺麗に化粧をしたいつもの顔とは比べ物にならないほど泣き腫らしていて、ぱっと見ただけでは彼女だと気がつかないくらいだった。
戸惑う私に彼女は「仁王くんに振られたの、あんたのせいだからね!」と詰め寄ってきたのだ。
仁王が告白を断るのはいつものことだ。
人気のあるテニス部員の中でも仁王は特によく告白を受けているけれど、首を縦に振ったことがないというのは有名な話だった。
断るときには必ず「今はテニスに集中したいんじゃ、すまんのう」と、一字一句同じ文言を使うのだということも、立海に通う女子なら誰もが知っていることだ。
それがどういうわけか、彼女は「林に怒られてしまうきに」と言われた、というのだ。
彼女にしてみれば想定外の返答で、しかも仁王の口から出たのがマネージャーである私の名前だったことが、いたく気に食わなかったらしい。
身に覚えのない私が「仁王お得意の気まぐれな詐欺だろう、私たちは付き合っていない」と何度否定しても、彼女は聞く耳を持ってはくれなかった。
挙句「こンの泥棒猫!」という捨て台詞とともに強烈なビンタまでお見舞いされては、これから授業を受ける気分になんてなりようがなかった。
「痛かったな…」
彼女の剣幕からありえないことではないと多少身構えてはいたものの、痛いものは痛かった。
それだけ仁王が好きだったということなのだろうけれど。
仁王とクラスが離れていて本当によかった。
教室へは行く気になれなくて、屋上へ足を向ける。
サボると決めてしまえば急ぐ必要もなくて、ゆるゆると階段を登った。
振動で頬が鈍く痛んだけれど、それよりも胸焼けの方が、ずっと不快で苦しかった。