第60章 秘密の花園〔幸村精市〕*
「……精、市?」
「渚さん、これから出かけないかい?」
驚きから「えっ、どこに?」と聞き返した声がかすれた。
けれど直後、返ってきた答えに私はさらに驚いて、言葉を失った。
「指輪…、指輪を買いに行こう」
何を言っているんだろう、精市は。
指輪?
誰の? 何のために?
三十の大台に手がかかろうかとしている女に、軽々しく指輪なんて言わないでほしい。
だって、変に期待してしまうじゃないか。
たっぷり続いた沈黙をようやく破った「指輪なんて…どうしてまた、そんな」という躊躇いの言葉は、自分で聞いてもひどく自信がなさそうに聞こえた。
「この状況で指輪って一つしかないと思うんだけど…渚さん、ニュース見てない?」
精市の曖昧な笑顔が、苦笑に変わる。
「ごめん、見てない」と素直に認めると、精市は「じゃあ今見て、スマホあるでしょ?」と言った。
言われるがままにポケットからスマホを取り出すと「俺の名前で検索して」と指示が落ちてきて。
その言葉の圧に押されるように「幸村精市」と入力すると、無数のネットニュースがヒットした。
「えっ…え、えええ! これ全部精市なの?!」
「たぶんそうだね…ああこれ、これが昨日の話」
悲鳴じみた声を出した私にはお構いなしにスマホ画面を上から覗き込んだ精市は、自分がテニスプレイヤーとして超有名企業とスポンサー契約を結んだ、という記事を指差した。
写真をよく見ると、企業のロゴが入ったウエアを着て、社長と笑顔で握手を交わしているのは、まぎれもなく精市。
ニュースの配信日も、間違いなく昨日だ。
「え…」
「俺、大学卒業したらプロになるんだ」
「ぷ、プロ…、何それ、知らなかった…」
ぽつりとそう言うと、精市は「たまに大きい花束持ってきてただろ。あれ、インカレももちろんあったけど、全日本選手権とかジャパンオープンで優勝したりしてたんだよ」なんてさらりと言った。