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短編集【庭球】

第55章 Nightmare before Xmas〔亜久津仁〕


ただ、何事もなかったようなそぶりが通用する相手だとは、どうしても思えないのだ。
不良を絵に描いたような男で、悪い噂には事欠かない。
というか私は、亜久津について悪い噂しか耳にしたことがない。

怖い人に売り飛ばされる、とか。
いかがわしい水商売を強要される、とか。

考えれば考えるほど、推薦が白紙になることよりもよっぽど恐ろしい展開が待ち受けている気がする。
──どうしよう。


電車に揺られながら魂まで出てきそうなため息を吐いたら、隣にいたOL風のお姉さんに怪訝な顔をされたけれど、構ってなどいられない。
齢十八にしてお先真っ暗。
絶体絶命とはこのことだ。




翌日。
なかなか寝つけない中、夢であってほしいと願いながら無理やり眠りについたけれど、目覚めた瞬間からすべてが現実で、私はベッドの中でまた絶望した。
最悪の朝だ。

母子家庭の我が家では、朝食は私の役目。
といっても、前日にパンを買ってくるだけの日も多々あるけれど。

昨日の夜中、重苦しい気分を変えようと無心になって仕込んだフレンチトーストを焼いて、テーブルに並べた。
店長に教えてもらったこの秘伝のレシピを、母親はいたく気に入っている。
フライパンで焼きつける甘く香ばしいにおいを嗅いだだけで、鼻歌まで口ずさむご機嫌ぶり。
まったく、いい気なものだ。
「元気ないわね、大丈夫?」と聞かれたけれど、曖昧に誤魔化してフォークを口に運んだ。
甘くて美味しいはずなのに、今日はあまり味を感じなかった。


校則で禁じられているバイトをしている理由は、突き詰めればこの家庭環境だ。

母親は夜遅くまで働いてくれているし、日々の生活に困っているわけではないけれど、私大の入学金や学費はやっぱり大きな負担。
志望している隣県の大学に進学することが決まれば、一人暮らしの費用や通学費用を浮かせるために母親は職場を転勤してくれるとまで言っているから、指定校推薦でさっさと合格をもらうに越したことはない。
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