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短編集【庭球】

第55章 Nightmare before Xmas〔亜久津仁〕


パティシエである店長と二人で店を切り盛りしてきたという奥さんは、ただ今妊娠中。
もうすぐ店に立てなくなるからとバイトを募集していたタイミングで採用されたのが私だ。
八カ月を迎えたお腹は亜久津の言うとおり、かなり大きくなっている。

「でしょう、しょっちゅう中から蹴っ飛ばされてるの」と笑いながらお釣りを返す奥さんに、亜久津は相変わらずの怖い顔で「元気な赤ん坊産めよ」と言った。
え、亜久津ってこんな優しいこと言うような人なの?!
驚きからケーキの箱を取り落としそうになる。
未だ震え続ける手元だけを見ながらモンブランを差し出すと、亜久津は大きな手でそれを受け取って、何も言わずに出ていった。

奥さんの後を追うように「ありがとうございました」と後ろ姿にかけた声は、やっぱり少しかすれていた。
ハロウィンのステッカーで飾りつけられたガラス扉が、音もなく閉まった。



亜久津が去ったあとは、心の乱れからだろう、本当に悲惨なものだった。
お釣りの額を間違えそうになったり、手を滑らせてトングを落としてしまったり。
苦笑いする奥さんに何度も平謝りして、なんとか閉店までこぎつけた。


店からの帰り道は、身体がとんでもなく重かった。
永久に家にたどり着けないんじゃないかと思ったくらいだ。
鉛のように動きの鈍い身体を引きずるように、電車に乗り込んだ。


見つかったのが亜久津だというのはせめてもの救いか、それとも地獄の始まりか。

おそらく亜久津は、クラスメイトの誰かに言いふらしたり、先生にチクったりするようなキャラではないだろう、と思う。
ならば推薦が取り消されるような展開にはならない、気がする。
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