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短編集【庭球】

第54章 冷たい手でもいいよ〔財前光〕


左の耳元で響く声、私の胸の前で交差する腕、背中に感じるたくましい身体。
驚きから思わず手離してしまったボールが、ころころと足元に転がる。
知らぬ間に背後にいたらしい財前が、私の後ろから覆いかぶさってきたのだと、その状況を理解するのに数秒はかかった。

ひとまず状況はわかったけれど、その理由はちっともわからない。
閉じ込められた腕の中から脱出しようともがいてみても、まるでかなわなかった。


「あ、あの…」
「バカはないんちゃいます?」
「あっ、えっ、ごめん…関西人にはバカじゃなくてアホ、なんだっけ…」
「はあ? 先輩、ほんまトロすぎっすわ」


理由を尋ねようと口を開けると、財前の方が言葉をかぶせてきて。
なんで聞こえているんだろう、ヘッドホンしてたんじゃなかったの?
そう驚きつつ謝ってみたら、呆れたような口調でなじられる。
またトロいと言われたことに気がついて悲しくなるより先に、財前が言った。


「バカやなくて、好きの間違いやろ」


潜められた吐息がちな声に、息を飲む。
恥ずかしくて見られないけれど、「ちゃうんすか」と回答を急かす財前が私の肩に顔を埋めたらしいことが、感覚で伝わってきた。
呼吸が浅い、身体が熱い。
心臓はこのまま爆発してしまうんじゃないかと思うくらいのスピード感で打ち続けている。


「財前…?」
「それや」
「え?」
「なんで俺だけ名前で呼んでくれへんのですか」


耐えきれずに視線を落とすと、私の前で組まれている腕が目に入る。
学ランの下からセーターの袖口がのぞく手元には、関節も指先も白くなるほどの力が込められていて。
背中に感じる鼓動は、私と同じくらいに早くて。

財前の仕草が、言葉が、息遣いが。
私は失恋したはずだったのにとか、好きでいてもいいのだろうかとか、そんな卑屈な疑問をすべて溶かしてくれる。
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