第54章 冷たい手でもいいよ〔財前光〕
「ねえ、財前」
「………」
「ざいぜーん?」
「………」
手元のボールかごから目を離さないまま、自分の後ろで着替えをしているだろう後輩の名を呼ぶ。
珍しく静かな部室に、私の声は充分すぎるほどに響いた。
が、待てど暮らせど望んでいた返答はない。
何かにつけて反応の薄い財前に大きなリアクションはもちろん求めていないけれど、それにしたって何の返事もないなんて、仮にも先輩に向かってちょっとひどすぎやしないか。
こっそり淡い恋心を抱いている身としては、なおさらダメージが大きかったりする。
「あかんわ、渚はん。今、コレ、してはる」
振り返って「無視、ですか」と一言物申してやろうと口を開きかけたところで、近くにいた銀が少し声を潜めて言った。
すぼめた両手を耳当てのようにするその仕草は、財前がヘッドホンをつけていてこちらの声が聞こえていないということを示しているらしい。
他の人ならいざ知らず、銀がやると声なき声を聞こうとする菩薩のようにしか見えないのだけれど。
銀の大きな身体の向こうに、ヘッドホンの片耳を押さえながら音楽でも聴いているのだろう財前が見えた。
「ほんとだ、ありがとう」とお礼を言うと、銀は神々しいとしか形容できない微笑みを浮かべた。
「ねえ、ヘッドホンの真似、もっかいやって」
「ん? これのことか?」
「そうそう! やだ、銀、かわいいー」
「かわっ…、ワシは、何も…!」
いつも堂々としている銀が小動物のようなかわいらしい仕草をしているのが面白くてからかってやると、銀は頭のてっぺんまで赤くして首を横に振った。
私としてはそれがなおさら面白いのだけれど、本人にはその自覚はないようで。
ひとしきり笑ったら、財前に無視されたように感じたことへの落胆が少し薄まった気がした。
やっぱり笑いは偉大だ。