第53章 背中合わせのプレリュード〔日吉若〕
先輩の動きはいつも気にしているから、今日の相手が向日さんで、昨日の掃除でマンガを捨てられたことに怒っているのだと、当然わかってはいる。
それでも着替えるスピードを意識的に落として、ポロシャツの中から「…またですか、今日はなんです?」と尋ねた。
ジャージまで羽織ると、先輩はいつものように、背中にぴたりとくっついてきた。
恋愛対象として見られていない虚しさと、それでも頼ってもらえる嬉しさとが、ぐちゃぐちゃに絡み合う。
「岳人がマンガ捨てられたって怒るの、ロッカー入れとかなかったくせに!」
先輩のその言葉には返事をせずに、射殺してやるつもりで向日さんを睨む。
同時に、構えこそしないけれど、身体に一分の隙もできないように、すっと集中した。
幼い頃から古武術に打ち込む中で自然と身についた、俺なりの型。
もちろん、素人相手に技をかける気はない。
これだけで目の前の相手には充分な威圧感を与えられることを、俺は知っている。
現に喧嘩腰で何か言っていた向日さんはたじろいで、「まーた日吉の後ろかよ…」と苦々しい表情で俺たちに背を向けた。
もれなく跡部部長…いや元部長、の怒りも買ってしまうあたり、今日の向日さんは厄日らしい。
それを見ていた先輩の「あはは、踏んだり蹴ったりね」という小さな呟きが俺の耳に落ちてきた。
極力意識しないようにしていた息遣いや背中に触れる鼓動が、急に大きく感じられる。
無自覚というのは本当に罪深い。
もう少しこうしていたいなんて浅はかな考えが頭をよぎったけれど、向日さんが部室を出ていったところで、さすがにこれ以上このままでいるのは不自然な気がして「もういいですよね」と言った。
言いながらも自分からは決して身体を離さない俺は、ずるいと笑われるだろうか。