第49章 月に願いを〔向日岳人〕
さっきまで泣いていたのが嘘だったように笑顔になった男の子の頭をわしゃわしゃと撫で回しながら「あんまママのこと困らせるんじゃねーぞ」と言い置いて、岳人は手をひらひらさせながらこちらへ走ってくる。
お母さんは岳人の背中に何度も頭を下げて、お礼を言っていた。
さっきまで隣にいたのに、戻ってきた岳人が見違えるように大人びて、格好よく見えて。
テニスバッグを手渡すときにほんの少し触れた右手は、自分のものじゃなくなったみたいだった。
「…やるねー」
「お前、滝かよ」
「いや、本当に。私あんなことちっとも思いつかなかったもん」
「おー、だろだろ?」
「うん、岳人のくせになかなかロマンチックだなと思った。忍足の教育の成果だねー、さすが毎日一緒にいるだけのことはあるわ、うんうん」
「そこでユーシを褒めんのかよ! クソクソ、そこはさすが俺、って言うとこだろ!」
ここで褒めちぎったら、私のことを少しは見てくれるようになるのかもしれないと思ったけれど、その感情はちっとも言葉を形づくってくれなかった。
つい照れ隠しで思わずギャグに走る私に、岳人は不服そうに唇を尖らせる。
申し訳なさと恥ずかしさにいたたまれなくなって「ねえ、そういえば今日の練習でさ」なんて、その一件をなかったことのように話をすり替えると、一瞬睨まれたような気がしたけれど、岳人はすぐにまた空を見上げた。
「じゃーな」
家まであと数メートルというところまでたどり着いたとき、岳人はそう言って立ち止まって、かったるそうに右手を上げた。
私は反応が遅れて、一歩前で振り返る。
いつも家に入るまで見送ってくれるのに。
けれど「なんで」とも聞けなくて、少し言葉に詰まったあと、目を合わせてくれない岳人に「うん、また明日ね」と小さく言った。